6.4 元気老人と要支援老人の社会参加 ~世代間交流の意義  

1)老人世代が社会参加する世代間交流の意義

2)老人世代の介護・介助は広義の世代間交流である

3)どんな老人でも社会参加できる

4)「認知症になるまで」と「認知症になってから」 ~認知症への心構え

5)敬老思想の再生に向けて

6)隠居生活のすごし方

 

1)  老人世代が社会参加する世代間交流の意義

◆老人世代の行動目標

 (1)発つ鳥跡を濁さず、この世の後始末、あの世への旅支度

 (2)次世代の青少年に「人生論教育」をおこなう世代間交流

 (3)次世代の青少年から「成老義務教育」をうける世代間交流

◆人生論教育 ~人生三毛作

 古希過ぎた老人は、だれでも人生論の生ける教材である。

◆「成老義務教育」

 未老人→老人→熟老人→安心立命

老人は、人生の後始末のお手伝いを、少/学業期世代にお願いする。

◆自立と要支援は程度問題、隠居老人と社交老人は程度問題

 老人は、だれでもそれぞれの条件に応じて世代間交流に参加できる。

ⅰ.奨学金クーポンを提供する

ⅱ.世代間交流イベントに参加する

ⅲ.世代間交流イベントの開催運営に参画する

◆少壮老の世代間交流で「敬老思想」を再生する

 敬老思想==>「弱い人間観」と「往還思想」の死生観を共有する

 家族の心情 → 老人の覚悟 ←国家の人権思想

 老人に接する人たちの意識→敬老思想の共有

◆敬老思想の壁

元気老人の老害、痴呆老人の厄介

◆「弱い人間」どうしの互助

権利主張ではなく、気軽に「頼む/頼まれる」関係、配慮と感謝、気持ち

お互い様の思想、お願いする勇気、頼む勇気、頼む強さ 

 

2)  老人世代の介護・介助は広義の世代間交流である 

古希過ぎた要支援老人と支援者との関係を、広義の「世代間交流」ととらえて整理する。

  要支援老人 

身体機能が正常でなく、自立した日常生活ができなくなった老人

A1: どうしても生き続けたい人、生命維持のための延命措置をして生かせてくれと頼む人

A2: 安楽死をのぞむ人、死なせてくれと頼む人、延命措置を拒否する人

  家族 ~少、壮、老それぞれの世代

 夫婦関係、親子関係、祖父母と孫、親族関係など血縁の情愛と義務で支援する人たち

B1: 要支援老人の意志に関係なく、自分の気持ちを優先する人

B2: 要支援老人の意志を尊重する人

  介護保険制度にもとづく支援者 ~壮年世代

 介護施設職員、社会福祉の専門家、ヘルパーさんなど介護する人、看取る人

C1: 要支援老人の意志に関係なく、老人福祉制度の処置を適用する人

C2: 要支援老人の意志を尊重して、柔軟に対応する人

  高齢者医療保険制度にもとづく支援者 ~壮年世代、老人世代

医療機関、医者職業として医療報酬を得て医療に従事する医者や看護師 
D1: 要支援老人の意志に関係なく、医学的に生命を維持する延命措置をほどこす人

D2: 要支援老人(患者)の意志を尊重して、延命措置をしない人

  民間企業 ~壮年世代
有料老人ホームなどの営利事業所の職員 

E: 要支援老人の意志および家族が承諾した契約の範囲内で支援する人

  NPOやボランティア団体など ~壮年世代、老人世代

地域共同体の精神、絆、互助・共助の気持ちで、有償または無償で支援する人

 F: 要支援老人と家族の意志と支援者の意思が協調できる範囲で支援する

  国民 ~壮年世代、老人世代

税金、保険料を払う人、その法律をつくる議員、憲法により権利が保証されている人

 G1: 国は、すべての国民の生存権を保証する義務があると主張する人

G2: 国は、安楽死もふくむ個人の意志自由を最大限に認めるべきと主張する人

 

3)どんな老人でも社会参加できる

老後を「自立」して生活できるか、「支援」を必要として生活するかは、程度問題である。古希をすぎた老人になれば、病気と老化は程度問題である。「人は皆、程度の異なる痴呆である」からである。

老人が、悠々自適の隠居生活をしたいか、社交的に人付き合いをしたいかは、その人の性格や思想・信条に依存するだろうが、それも程度問題である。

自立老人だけが、元気に社会参加できる。要支援老人は、社会参加できない、ということにはならない。自立老人も要支援老人も、それぞれの生活条件に応じて社会参加できる。人は、だれでも国家制度のもとで社会に参加して生きているのだから。

70歳すぎた老人は、どんな生き方をしてきたとしても、その生き方そのものが、少/学業期世代にとっては、生きた教材となる。憧れだけでなく反面教師としても。

老人世代の社会参加は、壮年期の延長を生きる元気で有能な老人や積極的に社会的役割を引き受ける社交老人に限られるわけではない。人付き合いをなるべく避けたい隠居生活者であっても、それなりの社会参加の仕方はある。わたしの老後の理想は、悠々自適の隠居生活であるが、自分なりの社会参加の仕方はありうるだろう。

老人世代の社会参加を考えるポイントは、A;老人個人の老人意識とB;老人に接する他者の老人世代への老人像である。少壮老のそれぞれの世代が、「老人に接する」思想と価値観の共有が基本的な条件となる。

A;老人個人の自分の老人意識
a.未老人 自分は老人ではない。壮年期世代の価値観のままで生きる。

b.老人  自分は老人世代に仲間いりしたが、壮年期世代の価値観も残っている。

c.熟老人 自分は老人である。人生の後始末、あの世の旅支度もほぼ終わった。

B;老人に接する他者の老人像

x.敬遠老 相手を老人と思わない、敬遠したい、交流を遠慮する。

y.好老  相手を好ましい老人と思う、交流したい、敬愛する。

z.敬老  相手を尊敬すべき老人と思う、目標にしたい、敬老する。

 

4)敬老思想の再生に向けて

往還思想の楽しみは、未老人→老人→熟老人への修練である。その修練は、壮年期の価値観からの脱却、老人思想への了解と希望的諦観である。

忙しく動きまわる壮年期を卒業して、静かに平穏にすごす熟老人への希望である。無為自然、則天去私、敬天愛人、悠々自適、日々是好日の心境への到達である。その目標は、樹木や動物たちと同じレベルの自然な老衰死、平穏死という大往生である。

ピンピンころりという価値観とはちがうけれども、価値観のちがう人を非難し排除するのでなく、多様な差異を棲み分けられる社会をのぞむ。老人像は、一つには限らない。

しかし、「借金1千兆円、毎年の老人福祉コストが1兆円増加」という状況に対する「老人世代の社会的責任」は、共有しなければならないだろう。

学業期が、大人になるための成人義務教育だとすれば、古希過ぎてもまだ10年以上も生きるためには、長老にむかう「成老義務教育」が必要なのではないか。

その成老義務教育のイメージが、世代間交流であり、新たな社会参加にほかならない。その社会参加をとおして新たな敬老思想を再生させる希望があるのではないか。

老人と交流する若者たちは、つぎのような姿勢で老人と接するだろう。

a.未老人を理解する ・・・・・なぜ、いつまでも「若さ」を保ちたいのですか?

b.老人を応援する  ・・・・・人生の後始末を手伝いましょうか?

c.塾老人を尊敬する ・・・・・・則天去私、敬天愛人について教えてくれませんか?

要支援老人に接する人は、上にみたようにその立場におうじて様々である。介護や介助は、「支援する/支援される」という「心の琴線にふれる」人間関係である。気持ちの交流が、介護や介助の底流にあるだろう。そこには、人間の好き嫌いの感情もあるだろう。

少壮老の世代間交流で「敬老思想」を再生するとはいっても簡単なことではなかろう。「元気老人の老害、痴呆老人の厄介」などの意識が、敬老思想の壁となる。

敬老思想は、老人の自己意識と老人に接する周りに人たちの老人像との関係において成立する。「支援を求める/求めない」*縁*「支援したい/支援したくない」の関係性。

その関係性は、「弱い人間」どうしの互助の精神と実践によって育つのではないか。

権利主張ではなく、気軽に「頼む/頼まれる」関係、配慮と感謝、お互い様の気持ち、お願いする勇気、弱さの強さ、孤立の強さと他力への諦観などが、敬老思想を育む老人思想の修練となる。

 

5)「認知症になるまで」と「認知症になってから」 ~認知症への心構え

 横浜市の広報誌をみて、「傾聴ボランティア講座」というセミナーを受講した。そのおかげで、ふたつの老人ホームを訪問できて、施設の雰囲気を感じる機会を得た。そこで数人の入居老人と接する体験もできた。

自宅や施設で認知症老人を介護する様子が、新聞やテレビでくりかえし報道されている。介護される人、介護する人、それぞれの姿態、行動、言葉にあらわれる「人格、思想、価値観」に想いをはせる。

その光景を老妻とふたりでみる。ふたりとも古希を過ぎたが、幸いにも健常者として普通の日常生活を送れている。今までのところでは。

しかし、ふたりが認知症になる確率は加齢とともに高まる。だから、これからの老後の過ごし方は、つぎの二つに分かれる。

A: 認知症になるまでの生き方と逝き方 ・・・・ピンピンころりなら問題なし。

B: 認知症になってからの生き方と逝き方・・・・「ころり」でなければ問題あり。

 

◆家族の限界、老老介護の限界、老人本人の自覚が最重要

人が、いたずらに長生きすることは、不自然な強欲・貪食ではないか。

おおくの60歳代には、長命の両親がいる。認知症で要介護状態の親をもつ子ども世代は、肉親への情愛の「心」はもちろんある。だから、できる限りの世話をしたい。

だが、80歳すぎた認知症の高齢者を世話しながらすなおなに、老人福祉法がいう「敬愛・敬老」の念をもてるだろうか。

息子にも娘にも、家庭があり仕事がある。要介護の親の世話を、家族だけで負うのには限界がある。いやおうもなく、だれかに助けを求めるしかない。

しかし町内会の隣人に助けを求めるわけにはいかない。互助の精神も仕組みも弱すぎる。

戦後民主主義の人権思想は、理念として「頭」ではわかる。だが自分の夫すら認知できない母親をまえにして、その人の「基本的人権」を、息子はどう尊重したらいいのだろうか。

「生存権」を根拠にして、「私」から「公」国家=みんなの税金と保険料をつかう「老人福祉」に全面的に依存することは、自然なことなのだろうか。

 

B: 認知症になったらしょうがない。

私たち夫婦は、「認知症の進行を遅らせる薬など飲みたくない」、「不自然な延命介護など望まない」、「余計なことはしないで、自然に寿命をまっとうしたい」という点では、お互いに確認している。この点では、老夫婦の意見がめずらしく一致している。

しかし、自分がこれまで経験したことのない要介護状態になったとき、どのように自分が振る舞うか、分からない。妻がこれまで経験したことのない要介護状態になったとき、わたしが認知症の妻をどのように介護できるか、どのように振る舞えるか、分からない。

なにせ、他者に日常生活の支援を依存する「要介護状態」とは、自らの身心頭の極端な統合失調である。Will意志Can能力Must規範の統合失調である。身体自己・生活自己・了解自己の極端な統合失調である。

そういう状態になったとき、どのように自分が振る舞うか、振る舞えるか、自信をもって確実にいえることは何もない。

 

◆「A: 認知症になるまでの生き方と逝き方」

  だから、元気なうちに「A: 認知症になるまでの生き方と逝き方」を考えるしかない。

では、そのために、どのような覚悟をもって老後をすごすか。

その思想性をどのように鍛えるか。

身心頭がバランスよく老化しながら寿命=天命にいたる生活をどのように実践するか。

死に至る老化を受け入れる身心頭の統合、Will意志Can能力Must規範の統合、身体自己・生活自己・了解自己の統合について、その思想と行動をどのように生きるか。

「元気なうち」とはいうけれど、身心頭の認知機能は確実に退化しつづける。「人は皆、程度の異なる痴呆である。」

願わくは、夫婦ともども穏やかな認知症で老衰しながら「生きて逝ければいいな」と思う。

 

6)隠居生活のすごし方

隠居生活における「この世の後始末」、「立つ鳥跡を濁さず」、「あの世への旅支度」のすごし方を考える。はじめは意識的な「作為」であるだろうが、その修練が習慣になり、「無為」となり「達観」に至るかもしれない。達観は、諦観に通じる。

世の常識は、「あきらめるな」である。多くの人が、「あきらめ」を「敗北」とみなす。世間の風潮は、長命をよしとする。生きることを「あきらめない」、「がんばりつづける」ことを是とする。多くの人が、「あきらめ」をしりぞける。

この常識は、少/学業期と壮/職業期をいきる現役世代にとってはおおいに意味があろう。しかし、老/終業期をすごす老人世代に「あきらめない」、「がんばりつづける」を求めるのは不自然なのではないか。不

自然な生き方は、気持ちがわるい。この気持わるさが、倫理観につながる。

壮年期の延長のままの社会的関係を続けられる人は、それはそれで幸福であろう。そういう恵まれた老人に文句をいう筋合いはない。

しかし、私はもう十分に仕事をしてきた。仕事をやめて、のんびり、ゆっくり、怠けてもよい老人になった。がんばる気にはなれない。悠々自適で「いいじゃん;Ejan」という気分。

老人世代には、壮年期の価値観とはちがう幸福があるはずである。その心境が、希望的諦観である。希望的諦観は、「個人」の自覚だけでなく、人の本然である「共人」=社会人であることの覚醒を基礎とする。

「自分は孤立して一人では生きられない。かならず他者と共に生きるしかない個人なのだ」という、あたりまえのことの確認。ささやかな社会参加として、個人主義の「私人」だけに執着することなくその殻をすこし破って、地域コミュニティの「共人」としても生きることの努力。「一人で生きる」と「他者と共に生きる」の両輪をうごかしながら安心立命にいたる。

 

「がんばらない」とはいうけれど、怠惰に流される過ごし方をよしとするわけでない。希望的諦観にいたるには、老化しながら枯れ行く身心頭の欲望をバランスさせる「修身・正心・誠意」の修練を不可欠とする。体力と金さえあれば、だれでも安心立命の境地にいたるわけではない。

人としての修身・正心・誠意の修練は、言葉はちがえども、古今東西の人類社会の普遍的な倫理・道徳・規範だと思う。「老にして学べば、死して朽ちず。」

「共人」としての規範なき国家や社会や組織は、崩壊することを歴史はおしえる。個人的な欲望だけを追い求めて繁栄を謳歌した古代国家は、「パンとサーカス」だけを求める国民によって自壊したのである。往還思想は、この歴史の教訓を「不自然な延命治療・介護」という欲望がもたらす「借金1千兆円」の日本社会の倫理性の劣化にかさねる。

個人の「幸せ」につながる倫理・道徳・規範は、命が命じる固体の宿命である。私利私欲の怠惰は、自然からあずかった命を軽視する知力=精神性、思想性の未熟さでしかない。

人間の本性は、勤勉と怠惰の両面をもった潜在性である。

◆勤勉は、修身・正心・誠意にむかう。

◆怠惰は、修身・正心・誠意からの逃避である。

「幸せ」は、不安を回収する勤勉の果実であると歴史は教える。どうじに怠惰は、人を不安に陥れる不幸の元凶だと歴史は教える。

希望とは、自らに宿る「生命」がうごかす身心頭の欲求である。人の欲求は、自然な宿命的本性である。希望とは、自然にしたがい欲求を実現する自由意志への喜びである。潜在性→可能性→実現性という達成感である。

人類にそなわるその命が、「頭」の知力を成熟させる。その知力が「心」の気力を奮い立たせる。その心力が「身」の行動に駆りたてる。身心頭を動かす生命力は、少壮老の人生ステージで、成長→安定→退化する。

バランスよく老化する身・心・頭の欲求統合が、老後を生きる希望にほかならない。往還思想は、自分のものでない自然の「生きる力」と「枯れる力」が、人の身・心・頭を動かすという生命論である。

往還思想の希望とは、卑小な我が身を自然にあずけ、自然と一体となる大いなる安心への希求である。

◆西郷隆盛の漢詩から        

 雪に耐えて梅花麗しく / 霜を経て楓葉丹し / 如し能くこの天意を識らば

 あに敢えて / 自らの安きを / 謀らむや

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