6.3 「天」を媒介にする人間関係 ~則天去私、敬天愛人 2015530

1)「天」を想う気持ち ~自分の内側の奥底と自分の外側の天涯

2)「天」から眺めるカオソフードな世界 ~カオス*ソフト*ハード

3)少壮老―私共公―直接性と間接性 ~ハードシステム社会からソフトシステム社会へ

4)「天」を媒介にする人間関係 ~ちっぽけな人間観と敬天愛人 

5)弱さの強さ ~形骸化した「平等思想」から「差別なき差異の多様性の共生思想へ」

 

1)「天」を想う気持ち ~自分の内側の奥底と自分の外側の天涯

◆自分の命は自分の所有物ではない

「自分」とは、「自」然の「分」身である。人間は、自然に支配される「ちっぽけな生き物」にすぎない。

母親の卵子と父親の精子のひとつどうしが偶然に結合した契機が、ひとつの命を誕生させた。その命は、両親の所有物からわたしへの贈与でもなければ、所有権の移転でもない。その命は、わたしの所有物ではない。

命があって自分がある。自分が在るから命が有るのではない。「命」は、だれのものでもなく、自然そのものである。「命―身心頭」の生死を支配できる者は、自分ではない。それは「自然」である。「自然」とは、人智をこえた超越である。

自分の命は、自分が意思する/しないに関係なく自律的に生きて死ぬ。「命」は、人間の自由意志をこえて作動する。自分をこえた自然の動き、自然な自律メカニズム、オートポイエーシスである。

人間の「自殺」をもって、人間の「自由意志」の優位性を唱える論者もいるが、わたしはそうは思わない。たしかに「生き続けたくない、死にたい、死のう」という意志は、明らかに人間の自由である。

しかし、その自由は、もろもろの想念のひとつに過ぎない。「自殺」の意志で何らかの実行手段を選択したとしても、必ず「命」が絶えるわけではない。身体の自律性によって、生死が分かれる。

意志→身体→実行→生死という因果関係は、直線的でも必然的でもない。意志的な自分は死ぬつもりでも、身体は、その意志を超越した次元で作動するからである。

意志を超越した次元とは、どういう認識か。

 

◆「不立文字」の心象世界

自分を対象とする認識のシステム論的図式は、自分*縁*外側である。自分は、身体自己*生活自己*了解自己という三つの自己の統合である。了解自己が、自分自身を観察する。その機能を心眼とよぶ。心眼は、心の直感と頭の分析のはたらきである。

心眼は、身体自己の内部を観察し、身心頭の三つのサブシステムに分割する。身心頭は、それぞれの欲望を衝動させる。その衝動のエネルギーが「命の火」である。「命の火」が燃えて「枯れる力」が蓄積される。そのプロセスが、少壮老の人生ステージである。人の命は、有限の時間しか生きない。それを天命とよぶ。

心眼は、その命の源泉をのぞき込む。しかし深奥に自律する生命そのものは、茫漠とした無限である。システム論的図式では認識できない世界全体である。言葉にならない意志を超越した次元である。自然そのものというしかない「不立文字」の心象世界である。

いっぽう心眼は、生活自己の外側にも向かう。外とは、我が生活空間に「縁」で接する身辺、周辺、外界、環境である。

心眼は、身の触覚や知覚による意識を「現象学」的に解釈する。「現象」を通して、外の世界に気持ちをかさねる。他者だけではなく、さまざまな生き物たちにも心をよせる。

肉眼が観察できる身体の近辺の現象は、きわめて狭い「事実」でしかない。生活自己が生きる「現実」は、自分の外側にどこまでも広がる。限られた直接的な体験をこえて、記号情報環境を媒介にして間接的な知識が、かぎりなく拡大する。

心眼は、「いま、ここ」をこえて、はるかな時空を飛翔する。その心象は、茫漠とした無限である。システム論的図式では認識できない世界全体である。言葉にならない意志を超越した次元である。自然そのものというしかない「不立文字」の心象世界である。

かくして、了解自己のはらきである心眼は、身体自己の内側に向かう極と生活自己の外側に向かう極において、「不立文字」の心象世界にいたる。

 

「天」とは、自然の森羅万象への畏怖と畏敬である

わたしは宇宙にうかぶ自分を生かす生命の神秘におどろく。さらに、生きとし生けるものすべての命の源に畏怖と畏敬をいだく。無言で頭を垂れる。語りえぬ時空をみすえて、文字をもたず沈黙するしかない。

老荘:「知る者は言わず、言う者は知らず」、「善者は弁ぜず、弁者は善ならず」、「われ妄言する、なんじ妄聴するのみ」

「不立文字」の心象世界=自然そのものを「天」とよぶ。

日本人にとっての悠久無辺の自然は、何でも見ておられる「お天道様」であり、人智をこえた不思議な「八百万の神々」である。

「天」は、地上の生き物に「天命」をあたえ、「天恵」をほどこし、「天罰」をくだす。

縄文時代から受け継ぐ日本人の心性は、自然に畏怖とどうじに畏敬を感じ、「天意」の物語をつくりだす。崇高なる自然へのおおいなる想念が、自然を「天」とする崇拝となり祈願となる。この自然観と生命観は、日本の風土にねざす日本人の感性である。

畏敬←天←命の奥底←内側*自分*外側→家族・共・公→社会→自然→天→畏敬

 

2)「天」から眺めるカオソフードな人間社会

「天」とは、自然の森羅万象が展開する心象である。生き物は、「天網恢恢疎にして漏らさず」の「天」の下で生きる。人類も自然の摂理の下で生きる生き物である。

動物は、職住と生殖と子育てにおいて、自然の摂理・自然の掟を生きる。アフリカ、東南アジア、オーストラリヤ、アマゾンなどの密林には、いまでも1万年まえから変わらぬ生活をおくる狩猟採集民族がいる。

しかし、人類は、職住・生殖・子育てにプラスして衣を飾り、好奇心をひろげ、権力、財産、名声などの幸福欲に衝き動かされて、文明社会を築いてきた。この幸福欲を実現する価値観は、アフリカ、アジア、南米などの発展途上国が、資本主義市場として拡大するまで続くであろう。

だが、それらの地域がひとしく「自由で豊かな」文明社会になり、少子高齢化社会になったとき、人類の資本主義的な欲望追求は持続できるだろうか。

この問いは、そのまま現代日本社会に投影される。

ミクロおよびマクロな自然科学の探究は、こんごも止むことなく進むだろう。これからの人類が、火星に移住しようが、海上都市に住もうが、あるいは生命医療で寿命が2百歳までのびても、人造ロボットを奴隷にした生活でも、仕事はぜんぶコンピュータにまかせても、それでも「自然」の摂理は超えられない。どんな精巧緻密な人工物装置であろうが、自然の法則の範囲内、「天網恢恢疎にして漏らさず」の下でうごく。

 

◆結果は目的よりも常に広く影響する

人類の知性は、「手段→目的」と「原因→結果」の思考において、「手段=原因」としたとき、「目的=結果」ではなく、「目的<<結果」である。つまり結果の影響範囲は、「目的」よりも常にはるかに広くて大きい。

人間の目的←手段の功利的な目標追求の知性は、手段がもたらす目的以外の広範な波及効果のすべてを予測できるわけではない。その合理的知性は、目的を前提にした限定合理性でしかない。目的領域以外は、背景として対象外となる。その背景は、想定外となる。

人は、想定外のできごとには責任をおわない。免責される。人災ではなく天災だから。

ここに「天」が登場する。「目的←手段」の限定合理性からみれば、この「天」は不可知領域となる。

人工物装置は、目的達成だけではなく、多様な影響を時空のひろがりに及ぼすのである。原発事故は、その事例のひとつにすぎない。地震も津波も原子炉のメルトダウンも放射能汚染も人体への影響も、ことごとく自然の摂理・掟の範囲内である。

自然は、「天網恢恢疎にして漏らさず」である。人間は、その天網の一部を知るにすぎない。

だが、現代社会は「天」を恐れない。

自然科学の探究の倫理性を問う知性は、ありえるか。

倫理の根拠をどこに求めるか。

 

◆カオソフード=カオスシステム*ソフトシステム*ハードシステムの重層構造

人類にそなわる理性、言語能力、好奇心、多様な欲望は、自然の「天網」をミクロかつマクロに科学的に探求し、膨大な知識をたくわえ、目的←手段の技術体系を蓄積してきた。

その技術体系が、文明社会の人工物装置と法律制度である。その帰結として、自由で豊かな少子高齢化の現代日本社会がある。

システム論的思考は、「天網恢恢疎にして漏らさず」を探求する活動と現代社会を「カオソフード」システムとして解釈する。

人工物装置と法律制度は、ハードシステムである。 ==>緻密、統制、権力

「天網の疎」は、ソフトシステムである。      ==>曖昧、協調、妥協

人間の身心頭の欲望は、カオスシステムである。  ==>自由、分裂、闘争

◆現代社会: 強私―滅共―強公―無天 

カオスな「私」個人主義*ハードな「公」国家主義

壮/職業期世代を中心とする「強い人間」どうしの一元的な社会。

◆未来社会: 弱私―弱共―強公―敬天

カオスな「私」個人主義*ソフトな「共」共生主義*ハードな「公」国家主義 

壮/職業期世代を中心とする「強い人間」どうしの社会と老/終業期世代を中心とする「弱い人間」どうしの社会の二元的な社会。

 

3)少壮老―私共公―直接性と間接性 ~ハードシステム社会からソフトシステム社会へ 

壮/職業期世代の価値観は、仕事の達成である。少/学業期は、仕事をこなせるようになるための学習である。老/終業期は、仕事を退職した人生の後始末である。

壮年期世代が従事する仕事の領域は、自由競争、順法、貨幣獲得/フリー、ルール、マネーを枠組みとするハードシステム社会である。現代社会は、仕事中心社会である。資本主義社会の政治は、経済に従属する。社会は、マネーを中心としてうごく。

現代社会は、仕事中心の「強い人間」どうしが競争するカオスな「私」個人主義とハードな「公」国家主義の私公二階建社会である。少/学業期と老/終業期は、この社会的において副次的な周辺の「生活者」にすぎない。

◆壮・・・「仕事」が中心 ==>「公」による資本主義的統制 ~ハードシステム社会

◆老・・・「生活」が中心 ==>「共」による共生主義的協調 ~ソフトシステム社会

これまでの考察で、「仕事」中心状況を「心の底から満足」できない社会として記述した。現代社会の「合理性の過剰と倫理性の劣化」の両面を、資本主義的な欲望追求の限界状況として把握した。

この限界状況を、「直接性の喪失==>間接性の肥大==>閉塞感」に図式化した。

×直接的な人間関係の喪失-→記号情報環境の隆盛=インターネット

×直接的な自然環境の喪失-→人工物環境の席巻=都市型生活、高層マンション 

そして「現代社会の閉塞感」を突破して、「心の底から満足」できる幸福感を求める実践を、間接性から直接性への転換にもとめた。

閉塞感の打破==>間接性の縮小==>直接性の増大==>幸福感

◎人間関係の直接性・・・>世代間交流

◎自然環境の直接性・・・・>農山村と都市との交流

 

◆「間接性の縮小→直接性の増大」の難しさ

「間接性の縮小→直接性の増大」は、歴史の針を逆転させる方向である。

×人間関係の直接性は、煩わしい、すっきりしない、カオスである。
だから==>マネーとルールで片づけたほうが気楽である。「公」統制の秩序。

×自然環境の直接性は、危険であり、制御できない、カオスである。

だから==>人工物装置を安全安心に管理する。治山治水の「公」統制の秩序。

人類の歴史は、このように壮/職業期世代が、個人の自由なカオスを制御するための技術体系をめざして、「公」統制の秩序を確立してきた。今後もその歴史はつづくだろう。

だから仕事中心の壮/職業期世代には、「間接性の縮小→直接性の増大」を求めることなどできない。壮/職業期世代の価値観は、「直接性の縮小→間接性の増大」にならざるをえない。

「閉塞感の打破==>間接性の縮小==>直接性の増大==>幸福感」という価値観の転換は、仕事を退職してあらたに勃興しつつある社会勢力の老人世代にこそもとめられる。

 

◆閉塞感とは、豊かなカオスの人為的な抑圧感である

閉塞感とは、カオスな潜在性と可能性への人為的な抑圧感である。カオスは、限定合理性をこえて「天網」が支配する個人と社会の潜在性である。

カオスは、豊穣なる清濁善悪美醜がおりなす身心頭の欲望であり、有象無象の生活空間であり、生活者の喜怒哀楽である。

カオスを抑圧する人為とは、「手段→目的」思考の限定合理性であり、「公」統制の秩序を維持するハード思考である。タテマエと綺麗ごとすぎる理念が、カオスな人間を抑圧する。

閉塞感を打破するためには、壮/職業期世代のハード思考から脱却し、新たな地平に逃走し、新たな価値観を創りださなければならない。

新たな地平とは、農山村集落と都市団地の少/学業期と老/終業期の世代が交流する場である。お仕着せの学校や職場ではなく、多面的に解放されたカオスな生活場である。

新たな価値観とは、カオスを根底に意識したソフト思考による「人間関係と自然環境との直接性」の価値観である。カオス;バラバラ→ソフト;ほどほど、まあまあ。

その実践は、仕事中心のハードシステム社会の「フリー/ルール/マネー」の枠組みとはことなる「ガマン/モラル/クーポン」を枠組みとする地域コミュニティの創造である。

◆壮年世代   ・・・・「私―公」ハードシステム社会

◆若者/老人世代・・・「私―共」ソフトシステム社会

 この実践をすでにつぎのように述べた。

(1)個人主義の「私」は、「公」国家に無条件に全面的には依存しない、頼らない。

(2)老人は、「共」―コミュニティの地域(疑似拡大)家族制のもとで天寿を全うする。

(3)老人は、我執を離脱し、「去私、捨私、虚私、無私」の人間関係を修練する。

(4)老人は、「天」に従って安心立命にむかう「共人」仲間と隣人関係をつむぐ。

では、「人間関係の直接性は煩わしく、自然環境の直接性は危険である」という根本問題にどう対応するか。

 

4)「天」を媒介にする人間関係 ~ちっぽけな人間観と敬天愛人 

少と老の世代間交流による「私→共」ソフトシステム社会の創造は、少/学業期世代への「人生論教育」と老/終業期世代への「成老義務教育」と一体でなければならない。

安全に保護された文部省指導の許可と補助金による「お仕着せ」交流イベントは、新たな価値観の創造などとは無縁である。「公」統制による秩序の範囲内でしかない。

「人間関係の直接性は煩わしく、自然環境の直接性は危険である」ことを生身でもって体験しなければ意味はない。体験にもとづく教育、修練でなければならない。

「一苦一楽、練磨して福を為す、一疑一信、反省して確信にいたる」ことを古人はおしえる。

 

◆人道 ~「ちっぽけな人間」が生きる人生街道

自分の主体性やら我執を自己主張しすぎるから、争いや、煩わしさがおきる。だから、人間関係の煩わしさの問題を、「去私、捨私、虚私、無私」の人修練に還元する。

お互い様の気持ちで、「まあまあ」と「柳の風」でうけとめるようになる修練は、「去私、捨私、虚私、無私」を目標とする。

こんなことは、競争社会を生きる仕事バリバリの壮/職業期世代にとっては、戯言にすぎない。

だが、仕事をしなくても暮らせる身分の老人世代では、多数派ではなくとも少数の一部には、戯言ではなく「実言」になる可能性はあるだろう。

老が少を応援し、少が老の「後始末」を手伝う、という世代間交流の「人生論教育」と「成老義務教育」の根本理念は、「私」という人間のあり方、人間像の問いなおしである。

自然は「危険」であるので、安全のための「訓練」の必要性を教える。

自然のなかで、多種多様な生き物の生態を観察できる。

人間は自分が生きるために、植物や動物の命を殺して自分の食料とすることを知る。

自然環境の直接体験は、自分がかぎりなく「ちっぽけな存在」であることを確信させる。人は、「生命=自然」のはたらきを共有しながら他人と付き合うしかないことを確信する。

ひとり一人は、よわいちっぽけな個体でしかない。人間は、よわい生き物である。人間は、自力=主体性よりも他力=依存性によって生きる。

このような人間観にもとづく処世訓=倫理道徳は、古くから宗教において語られてきた。おおくの人が、宗教の教えを人情、義理、条理、道理にかさねている。

「ちっぽけな人間」が、身の丈知らずにゴーマンに無理すれば、道理がひっこむのである。道理は、「ちっぽけな人間」が生きる人生街道の「人道」である。

 

◆「人道」の根拠は「天道」である

「人道」のあるき方の是非は、目的手段や因果関係や功利的な損得勘定などの合理的な思考では、だれも断言できないし、だれも説得できない。「人道」は、倫理観だからである。

倫理は、人間が知覚できるこの世の個々の事象をこえて、感知できない「なにものか」の存在を想定する。清濁善悪美醜真偽などのカオスな潜在性を根拠にする。

往還思想は、その「なにものか」を、お天道様=天とよぶ。わたしは、「天災」を逃げて避け、「天罰」をおそれ、「天恵」を祈願し、「天意」を解釈し、「天命」を諦観する。

倫理とは、我が身心頭の欲望と他者におよぼす影響が、「お天道様」に恥じないかどうかの自分の判断=了解自己のはたらきである。

「その生き方は倫理的か?」という問いは、「その生き方は自然なことなのか?」という問いと同じである。

だから自分が「その行為は倫理的でない」と判断するものは、「不自然な行為」であり、みっともない「無理なふるまい」となる。「お天道様に恥ずかしい行為」となる。

自らの欲望と行為が、倫理的かどうかをきめる審判者の位置に「天」をもとめるのである。

人情、義理、条理、道理などの生活感覚にねざした「倫理」とは、「天=自然」に従う、則ることである。「ちっぽけな人間どうしのお互い様、困ったときの助け合い」という庶民の「自然」な知恵こそが、倫理道徳だと考える。

 

◆ちっぽけで「弱い人間」の「強い魂」

「人道」には、深淵なる宗教の教えや西欧思想の形而上学や観念論など不用、不要である。「主体性」だの「確立した個人」だの「人権」だのは、ほどほどに主張したほうがよい。

ひとは、自然に従って生きて死ねばよい。だから、人為的な不自然さ、差別や抑圧や不平等には、抵抗しなければならない。

お互いに「ちっぽけ」な「弱い人間」どうしであるからこそ、「弱い人間」を利用する一部の「強い人間」が威張ることになる。自分勝手にのさばって、不平等な「公」統制の秩序をよしとする思考と価値観を「弱い人間」たちに啓蒙する。「弱い人間」たちに自由な権利意識を植え付ける。競争原理を進歩主義の価値観とする。

そして勝ち組と負け組がうまれ、格差社会が必然となり、さらに「公」統制の秩序が強化される。

制度がもたらす不平等には、「それは、不自然だ!」と声をあげなければならない。これが、ちっぽけで「弱い人間」の「強い魂」である。

直接的な人間関係を「煩わしい」と考えることは、ゴーマンな自己中心的「強い人間観」に基づく「功利的で不自然」な心象だと考える。

「天」の下では、人間お互い様、ちっぽけな生き物どうし。自分、自分といいなさんな。人間関係の直接性は、「天」を媒介にして「煩わしさ」を解消させる。天を通じて人と人は関係しあう。べったりでなく、冷淡でなく、ほどほどの「顔のみえる」関係性は、「独立した強い人間像」ではなく、「他者ともたれあう弱い人間像」の修練である。

「天」を媒介にするこの関係性を「敬天愛人」とする。「敬天愛人」を「私―共」ソフトシステム社会の原理とする。

 ここで「天道」をつぎのように定義する。

ⅰ.天道の「天」は、お天道様の「天」である。

ⅱ.お天道様とは、日本人がなんとなく感じる八百万の神々である。

ⅲ.天道とは、自分の言動がお天道様から見られているという意識である。

ⅳ.倫理は、お天道様から見られて恥ずかしいと思う自己判断である。

ⅴ.恥ずかしいとは、人情、義理、条理、道理にあわない言動への気持ちである。

 

5)弱さの強さ ~形骸化した「平等思想」から「差別なき差異の多様性の共生思想へ」

大阪市に知的障害者の絵画アトリエがあるそうだ。そこで絵画を制作している人たちは、「肉体的にも精神的にも、経済的にも弱さを抱えている」。しかし彼らの作品は、「弱い存在者の強さ」を人に感じさせるそうだ。

その強さとは、他者からの影響を受けないところ。社会の情勢や動向、評価者の声にぶれない。そういう強さ。彼らは、外部の情報を受け入れて、それに対応する「反応力」は弱い。しかし、内面の生命の「燃焼力」は強い。

弱い「反応力」は、周囲に惑わされない強さである。

「強い力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」(新約聖書)

「生きるものたちは柔弱、死せるものたちは堅強」(老子)

「弱いのは決して恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥なのだ」(島崎藤村)

「強い返事をしようと思うときは黙っているに限る」(夏目漱石)

「人間の弱さは、それを知っている人たちよりは、それを知らない人たちにおいて、ずっとよく現れている」(パスカル)

 

「共」の人道と「天」の天道を修練する倫理思想

ところで、社会的弱者たちは、近代以前のどの時代にも存在した。そういう層の存在者たちを救済するために、縄文人の血をうけついだ日本人の先祖たちは知恵をはたらかせた。

それは、土俗宗教と一体化した共同体であった。家族愛を基礎にした共同体の救済原理を、身辺、周辺、外界、天界へ拡張した。共=民族や公=国家をこえる彼岸の自然・超越世界・八百万の神々を観念した。そこに「肩をよせあう」相互信頼、互助、祈り、祭りがあった。

だが、近代思想の合理性は、共同体の人間関係性からきりはなされたハダカの個人をまず前提にする。信仰や宗教や共同体思想を、非近代、迷妄、後進性として排除する。

そしてどうじに他者との関係性において、弱者たちが、自らの倫理性を修練する原理をも失った。倫理なき近代思想は、社会的責任をもっぱら国家に帰属させているのである。

日本の政治状況を俯瞰すれば、社会主義的救済原理が、資本主義競争の強者の存在を前提にする寄生的パラドックスに陥っている。

キリスト教がとなえる神の存在を念頭におく近代思想は、神の下での個人という基本単位を社会システムの要素とする。個人は、独立した個物の主体であると大前提される。

人という確たる要素たちの集合がまずあって

要素間に諸関係性の束が構造をつくり

それがシステムの秩序となる、

という合理思想である。

それゆえに、社会を構成する人間は、生まれながらにして尊厳ある個体であらねばならない。生まれながらの尊厳性を基準とする西欧流の倫理観は、生きる権利を「侵すべからざる」天賦の人権、生存権とみなすのである。

この思想には、「人間に成る」、「老人に成る」という精進修練の視点が欠落している。西欧思想の「自由」概念と日本人古来の「自在」概念との決定的な落差である。

インテリと呼ばれる戦後の進歩的知識人や社会党や共産党やその支持者たちは、この人権尊重・生存権を、平等思想と社会運動の基準とする。権威ある不可侵対象が、戦前の「天皇の神聖」から戦後は「個人の尊厳」に革命的な転換をとげたのである。

往還思想は、少→壮→老の人生論の視点から「個人の尊厳」、「強い人間観」を問いなおす。

老化にともなって介護や介助を必要とする老人が、「公」国家にむかって救済を要求する権利思想の社会的責任、倫理性を問うことは、「言語道断のとんでもない」、「あってはならない」発想なのだろうか。

自立できない要支援の老人たちが、国家の救済に向かわず、希望的諦観への修練を考える「往還思想」は、荒唐無稽な時代錯誤の反動思想なのだろうか。

◆生命倫理  延命治療をしてまでも長生きするのは倫理的か。
◆世代間倫理 老人の社会保障費負担を過剰に壮年世代に負わせるのは倫理的か。 

往還思想は、「私」の自由・欲望を抑制する契機として、「共」の人道と「天」の天道を修練する倫理思想である。

(1)生命倫理 ; 私

◆人間は他の動植物の生命を食っていきるという自覚をもつべし。脱人間中心思想。

(2)世代間倫理 ; 共

 ◆老/終業期世代は、少/学業期世代を支援すべきである。

(3)老人倫理 ; 天

◆延命治療をしてまでも長生きするのは「気持ちがわるい」。天寿でよい

 

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