3.6 現代社会の閉塞感を突破する老人世代の新たな価値観

1)老人世代の「新たな社会参加」の具体的なイメージ

2)老人世代に固有の価値観 ~「新たな社会参加」にむかう価値観の転換

3)「生命の尊厳」と「人間の尊重」を区別する

4)「生命の尊厳」という倫理観の根拠==>お天道様

5)「人間の尊重」を修練する倫理の場==>自然/天道を畏敬する共同体

6)公 江戸時代の修己治人

7)共 西郷隆盛の敬天愛人

8)私 夏目漱石の則天去私

9)老人に成る修練 ~未老人→老人→熟老人

 

現代社会は、「心から豊かさ」を感じる幸福感を疎外している。この状況を打破する社会改革の潜勢力として、老人世代の可能性に期待する。

ここでは、その可能性を実現する条件を考える。その条件を{私*縁*(共・公・天)}のシステム論的枠組みで考える。そして、老人世代の新たな価値観にもとづく新たな社会参加を展望する。

 

1)老人世代の「新たな社会参加」の具体的なイメージ

現代社会の閉塞感、沈滞感をふきとばして、心の幸福感をたかめるには、どうしたらよいかについて、その方向性を「人間関係と自然環境の両面における間接性から直接性への転回と再生」とした。

それを担う社会的勢力として老人世代に可能性と希望を託す。

老人世代が、その希望を実現する「新たな社会参加」の具体的なイメージは、概略つぎの二つの交流が協調する仕組みである。

①人間関係の直接性・・・・世代間交流

老/終業期の老人世代が、少/学業期の子ども世代と交流する。

 ②自然環境の直接性・・・・農山村と都市との交流

  地方や郊外の農山村集落と都市団地の住民が交流する。

もちろんこのような交流イベントは、全国各地ですでに実施されている。都市住民のなかでも自然回帰の風潮は、たかまりつつある。積極的に参加している老人もいるのは事実である。おおくのNPOが、この分野で活動している。

だが、直接性への転回という価値観の転換する目標からみれば、「過剰な合理性と倫理性の劣化」という現代思想の根本問題を意識しない従来のままの交流イベントでは、根本的な限界があるだろう。社会システムの変革にはすすまないだろう。

(☆社会変革のイメージ例 ;使途限定のバウチャー通貨の流通、地域自治集団の制度化、住民税の一部を自治的地域コミュニティに納付するなど!

現代社会の人間関係の間接化と仮想化は、科学技術の発展による情報化社会、都市型社会、法治国家システムの必然的な帰結である。

だから、従来の価値観と思想性のままでの交流イベントでは、直接性への転回という実践において限界があると考える。「人間関係の直接性への転回」は、高度文明社会では時計の針を逆にまわすことに相当する歴史的な変革であるからである。絵空事にちかい観念にすぎないかもしれない。

安全やプライバシーに留意したお役所的で「きまじめな」交流イベントならば、ワークショップふうのノウハウで気軽に実施できる。行政の補助金を原資とする一過性の交流イベントにも、それなりに意義はあるだろう。

だが、「現代社会の閉塞感、沈滞感をふきとばす」などと大上段に構えるならば、ルール重視のハード思考を「ふっとばす」カオスも受け入れる雑多な人間の交流でなければならない。

均質でない有象無象がソフトに協調する交流である。責任の所在もはっきりしないかもしれない。社会常識や秩序との少なからずの衝突も覚悟しなければならない。

社会変革を意識する老人の「新たな社会参加」という交流イベントのためには、事故責任と自己責任の関係、個人情報保護と互助の関係、費用負担の仕組み、税金を代替補完する使途限定クーポン券の流通など、これまでの常識をこえたカオスな人間関係と社会秩序の在り方まで踏み込んだ思想が必要となる。

(☆ボランタリではない世代間交流のコミュニティビジネスモデルなど)

「人間関係と自然環境の両面における間接性から直接性への転回と再生」は、大きな価値観の転換という思想営為と表裏一体、同時進行でなければならない。

 

2)老人世代に固有の価値観 ~「新たな社会参加」にむかう価値観の転換

「新たな社会参加」としての世代間交流および農山村・都市間交流は、顔の見える直接的な人間関係である。

だが現代社会は、そのような共同体的な人間関係の場を喪失した。

その原因は、壮/職業期世代の仕事中心の生活スタイルである。社会の近代化つまり都市型生活スタイルを支える「独立した強い人間」の価値観である。

その価値観の基礎は、西欧近代思想の理念的な人間像である。その人間像は、土着の共同体的掟を脱出した「個人の自由、人間の尊厳、人権尊重」という個人主義である。

だから、顔のみえる直接的、共同体的な人間関係を再生するためには、「個人の自由、人間の尊厳、人権尊重」という個人主義的価値観の転換が必要となる。このことは、すでに繰り返し述べてきた。

壮/職業期の価値観を脱出し、価値観の転換をになう可能性をもつ社会勢力が、老人世代ではないか。

老人世代に固有の価値観の創出は、◎倫理性>>○合理性>>△権利性という価値観の比重への問いなおしを起点とする。

 

3)「生命の尊厳」と「人間の尊重」を区別する

人は、「生きる力」と「枯れる力」をもって生まれる、と往還思想は考える。生きる力が、嬰児→乳児→幼児→園児→児童→手中高大学生→成人→壮年という成長を活動させる。

枯れる力のおかげで、老人の活動が自然に衰退し平穏死にむかう。

潜在性→可能性→実現性の運動である。{在る→為す→成る}の運動論的な人間像である。

往還思想は、「生命の尊厳」と「人間の尊重」を区別する。

往還思想は、人で在ること自体に尊厳を感じない。人間に成る人生街道のあるき方に「人間の尊重」の基準をおく。

「生命の尊厳」とは、生命の「生きる力」と「枯れる力」に内在する自律性への畏怖である。その畏怖感は、人智をこえた超越性つまり「お天道様」を根拠とする。「お天道様」への想念を倫理観の根拠とする。

いっぽう「人間の尊重」は、人間を動植物から区別する一種の社会思想、特定の社会条件で発生した歴史的な所産にすぎない。それは、近代の啓蒙思想である。

近代思想は、生命の尊厳=人命尊重=人権思想=個人尊重=自由とみなす。

その人権思想は、全体主義時代の王権神授説に対抗した人権天賦説という歴史的な所産にほかならない。

かくして、合理性と権利思想が一体となって、倫理性が相対化されたのである。相対化した倫理性は、科学的でない、伽㏍ン的でない、根拠薄弱として社会ぜんたいの常識的な倫理性を弱体化させている。

往還思想は、人権尊重を天賦の権利とはみなさない。人権思想は、普遍的な価値観ではなく歴史相対的な価値観であると考える。

人間の在り方の{潜在性→可能性→実現性}という歴史運動における{少壮老の状態*縁*社会的諸条件}に対応して、社会的「権利」の内容は変化する。

だから「生命の尊厳」という倫理性と「人間の尊重」という権利思想を明確に区別しなければならない。

◆「生命の尊厳」は、人智をこえた超越性を根拠とする。

つまり「お天道様」への畏怖である。

◆「人間の尊重」は、頼りなく弱い人間どうしの共同性を根拠とする。

つまり「お互い様」への配慮である。他者への配慮なき人間は、「人間の尊重」という観念をもたない人格である。

老人世代に固有の価値観の創出は、「生命の尊厳」と「人間の尊重」を区別せずに一体化する現代社会思想への反旗である。

 

4)「生命の尊厳」という倫理観の根拠==>お天道様

「生命の尊厳」をみとめる往還思想の倫理観の根拠は、「お天道様」への畏怖である。価値・倫理・道徳の最終審級の座に「天」を観念するのである。

  「天」とは、キリスト教では天国。仏教では、衆生が生死流転する最上部に位置するもっとも苦悩の少ない世界。神道では、畏怖と畏敬の対象である八百万の神々たち。儒教では、天命を発する超越者。

  往還思想の「天」とは、万物が流転する存在そのものに内在する自律性、プログラム、メカニズム、ロジック、無限の潜在性、超越性、合理性と倫理性の完全な一体性、宇宙、つまり「自然」というしかない。

その自然の一部が、天空であり、地上であり、人間界であり、地下であり、「この世」であり、天下である。

現世の人間界は、自然の一部である。だから不完全である。不完全な知恵しかもたない人間の所作である人工物装置は、不完全な人間が判断する限定合理性および限定倫理性にならざるをえない。

道具、機械、設備などの人工物設備も制度、規則、契約などの人工物制度も、人智の視野に制約された合理性と倫理性にすぎない。必ず境界を接して想定外の外部をもつ。

完全な「天」からそれらの無数の人工物たちをみれば、そこにあまたの矛盾や亀裂を観察できる。

「天」の位置から人間世界を想念する価値判断が、人に内省をうながす了解自己の倫理意識にほかならない。

 

5)「人間の尊重」を修練する倫理の場==>自然/天道を畏敬する共同体

自然/天道のもとで、日本人は、家族、共同体の「共」的な人間関係の「絆」をむすぶ。この共同体をベースに「公」の近代の国民国家が期したのが明治時代であった。

明治帝国憲法は、「修身―斉家―治国―平天下」という儒教における超越的な「天」を、現人神として、権威と権力の統合者として、具体的な「天皇」に体現化させた。君主制全体主義国家である。中央集権国家である。

江戸時代の幕藩体制という地方分権の雄であった薩摩藩が、中央集権化を強化する明治政府と衝突したことは必然であった。そして、日本の近代国家にむけて大久保が勝って、西郷が負けた。

日本は、大日本帝国として西洋列強と対峙する富国強兵国家になっていった。和魂洋才の「魂」は、「天」から離脱して、おこがましくも狭い大和民族主義に吸収され、「人権」思想を含意する「敬天愛人」の倫理性は、国家権力の弾圧で霧散霧消したのである。

「仁」にもとづく儒教の権力統治の合理性だけが、官僚機構と軍隊に引き継がれた。自然/天道をチャネルとして人と人が関係しあう「敬天愛人」の倫理性は、きわめて偏屈な「国体思想」に矮小化さていったと、わたしは思う。

「天」への畏敬を無条件の至上価値とする往還思想の日本人的な倫理意識は、終業期を生きる老人の修練目標として、私;則天去私、共;敬天愛人、公;修己治人をめざす。

 

6)公 江戸時代の修己治人

 江戸時代は、士農工商の身分制社会であった。「公」は、武士が支配する統治権力を意味した。その権力の正統性をささえる思想が、易姓革命をとなえる儒教、朱子学であった。つまり、「公」をになう天子は、天命を授かり天下を治める。天命にそむく不徳の天子は退けられ、天命は別の有徳者に移る。

 だから、上に立つ支配者、リーダーは有徳者であらねばならない。そのためには、正心/誠意/修身の学問にはげみ、己を修養しなければならない。

そうして、家の経済を安定させ、人民を統治すれば、天下は安泰となる。修己治人つまり修身―斉家―治国―平天下の思想性である。 

 この思想性の根幹は、「格物/致知」に達する「居敬窮理」の修己、知行合一である。「理」を「窮める」という朱子学の「理」に、現代に生きるわたしは合理性と倫理性の「理」をかさねる。

この思想性の実践は、士農工商それぞれの身分に応じて仁信義礼智信や忠孝などの徳目を要求した。身分社会を生きる庶民の倫理道徳を、二宮尊徳や石田梅岩や中江藤樹らの民間学者が示した。

江戸を訪れた西洋人たちが、普通の日本人たちの「やさしさ、つつましさ、清潔さ、勤勉さ」などの倫理性に「びっくりした」という紀行文がいくつも残されている。

  それに反撥したのが安藤昌益である。人の道・道徳をことさらに説教する聖人や坊主たちを、「不耕貪食の輩」だと全否定したのである。

「不耕貪食の輩」とは、自分では田を耕さずに、他人が生産した作物を収奪する貪欲な連中のことである。「直耕」から離れた不自然な社会の寄生虫である。

「直耕」とは、自分が生きるために必須な衣食住のかてを、自然に感謝しながら活用し、自分および家族や共同体で共働して手にいれることをいう。

こういう「直耕」を原理とする社会の人間像は、縄文時代から伏流する日本人の土着思想に根をもちながら、西洋の人権思想を先取りするものとみなされる。

 

7)共 西郷隆盛の敬天愛人 

明治維新は、江戸幕府の封建社会を転覆する近代国家への革命であった。明治10年、日本最後の内戦が西南戦争で終わった。1877924日午前4時、鹿児島市街に陣取る官軍の総攻撃が城山に向かって始まった。西郷隆盛は、「晋どん、晋どん、もう、ここでよか」と言い、別府晋介に介錯をたのんだ。享年51歳。

わたしたちは、その西郷の教えを漢詩や『南洲翁遺訓』に見ることができる。「遺訓」第二十四に「敬天愛人」がある。

「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也。」

  わたしは、ここに、自然/天道をチャネルとして人と人が関係しあう「人道」思想をみる。西欧の啓蒙思想とは次元を別にする日本人の人道思想=ヒューマニティである。

天賦の人権を互いに尊重しあう「人道」思想の根拠を、自然/天道=「お天道様」に求めるものとして了解する。

その実践が、地域コミュニティにおける「お互い様」の互助である。

 

8)私 夏目漱石の則天去私

夏目漱石、1916年(大正5年)129日)、「明暗」執筆途中に死去4910か月)。則天去私;我執を捨て平穏な心境に達する諦観を晩年の理想とする。

漱石は、和魂洋才をかかえイギリスに留学し、西欧の個人主義、主体性、近代思想に直面した。日本人の「魂」と西洋人の「私」の対比に苦悶した。

そして、則天去私の心境をめざすことに平安を求めた。往還思想は、この則天去私を敬天愛人に接続する。ここに老人世代の安心立命をめざす。

則天去私、敬天愛人への修練を、老人世代の新たな価値観の創出と社会参加とする。

 

9)老人に成る修練 ~未老人→老人→熟老人

敬天愛人の「敬天」とは、則天去私の「則天」と同義語だとする。「愛人」とは、「去私」どうしの人間が、「天」を媒介にして、共的人間関係と公的人間関係をとりむすぶ倫理性だと理解する。

その人間像は、頼りない、ちっぽけな、肩を寄せ合って生きるしない「弱い」人間像である。「弱い」人間だからこそ、「天」への畏敬をもって希望的諦観にいたる。

「弱い」人間だからこそ、「お互い様」の依存関係を自然とみなす。

この人間像は、近代啓蒙思想の「独立した、主体的で、権利を主張する」強い人間像の対極に位置する。この両極は、壮/職業期と老/終業期の対比にほかならない。

西郷も漱石も50歳前後にして「天」に目をむけ、思い、語り、実践して逝った。わたしは、すでに古希をすぎた。なんと未熟な老人であることか!!と嘆息する。

わたしは、戦後教育で合理性を教え込まれた。だが、大人に成る、親に成る、老人に成る、という人間関係における{在る→為す→成る}の人格形成=倫理性を厳しく訓導、教育された記憶がない。Will欲望Can能力Must規範に関する「規範、道徳」思想教育を受けた経験がないといってもいい。

  現代社会は、法治国家である。合理性は、経済功利性の損得評価に回収される。倫理性は、合法/犯罪という法律へ回収される。「公共」は、一体となって官僚・行政・役人が独占する。

これらの思想性が、「天」をも畏れぬ生殖技術と原子力技術を称賛する。

現代社会は、ハードな「私と公」の突出、カオスとソフトな「共と天」の喪失である。合理性の過剰、倫理性の劣化である。現実社会を認識する間接化と仮想化である。

ハードな社会システムの人工物と記号情報を「縁」・媒介とする人間関係と自然環境の間接化である。生身の身心頭の欲望を実現する直接性の喪失である。

このような社会状況を突破する社会勢力を老人世代とする。壮/職業期を卒業した老/修業期世代こそが、未来の日本社会の希望である。

その希望への実践が老人の修練=未老人→老人→熟老人である。

その社会的実践が、成老義務教育、老子の小国寡民の地域コミュニティ、地域自治会の制度的復権、地産地消ビジネス、少と老の世代間交流と地域社会教育、擬制的三世代家族制度、鎮守の森の再興などのイメージでる。

そのイメージに向きあう修練こそが、往還思想と共生思想がめざす則天去私、敬天愛人の希望的諦観、安心立命にほかならない。

このテーマは、「.8 老人思想の実践~老人世代の撹乱力」および6章につづく。

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