3.5 社会改革の潜勢力としての老人世代の可能性 ~往還思想の社会的意義

1)ピンピン元気プラスαが必要ではないか?

2)人の「頭」は「共」を生きるために発達した

3)個人の生き方は社会的意味をになう

4)老人がいつまでも元気さだけを望むのは私利私欲である

5)個人主義の尊重が資本主義社会の私利私欲を是とする

6)いまの日本社会は「ゆったり、のんびり」暮らせる世の中か?

7)往還思想および共生思想の生き方 ~新たな価値観と社会参加にむけて

8)「もうひとつの価値観」への希望 

 

還暦すぎた老人の意識は、未老人―普通老人―熟老人など人それぞれである。その身心頭の状態も、ピンピン元気―ホドホド老化―ヨボヨボ要支援などさまざまである。このこと自体は、むかしから変わらない。

だがいまや日本人の4割が老人世代となる近未来は、これまでの歴史で経験したことのない事態である。老人世代が、大きな社会集団となる歴史的な事象である。少壮/二毛作時代の価値観にしばられない、もっと自由に解放された老人勢力が登場する可能性である。

人類の歴史に新たな社会勢力の可能性をもつ老人世代が登場する。きわめてエキサイティングな歴史がはじまろうとしている。

社会改革の潜勢力としての老人世代の可能性は、封建制度を打破した新興商人階層(ブルジュワジー)の勃興期の歴史を想起させる。社会常識を逸脱できる老人世代から、「新たな価値観と新たな社会参加」が漏出、発芽、創出してくる希望である。

 

1)ピンピン元気プラスαが必要ではないか?

いつまでも健康でピンピンして生き続けたい。元気にピンピンしてコロリと逝きたい。この願望は、人の自然な気持ちである。病気や要介護になることを望むのは、不自然である。

100歳まで生きたいと願うか、という調査結果は、つぎのとおりであった。

回答者数:4144人、はい:35%、いいえ:65%。

●「はい」の理由: (複数回答)

やりたいことがたくさんある:577人  命を大切にしたい:520

 長生きすればいいことがある:410人 生きるのが楽しい:346

●「いいえ」の理由: (複数回答)

病気になってまで生きたくない:1435人 親族に迷惑をかけたくない:1133

 100歳に意味を感じない:1112人  いいことがあるとは思えない:603

 

この調査の100歳まで生きたくない人の48%が80歳代で死にたい。31%が70歳代で死ぬことを理想とする。約8割である。この数字は、理想というよりも平均年齢に近い現実と符合する。

100歳まで生きたいと願う人やアンチエイジングやピンピンころり願望の人は、健康で、能力に優れ、金もあり、社会に認められる才能をもった人生の勝ち組におおいと思う。現代日本社会の仕組みの中で活躍されてきた方々である。

これからも「まだまだ頑張るぞ」という気力に満ちて、これまでの仕事を続けようという人たちである。子ども・学生時代と仕事中心時代の「人生二毛作」人生論者とみなしてよかろう。

  だが、高齢化時代の老人の生き方として、それだけでよいのだろうか。

ピンピンした立派な人生に何かプラスアルファが必要なのではないか。

1千兆円をこえる借金を若者に残しながら、高齢化時代をむかえる今後の日本において、老人の生き方の社会的規範と実践的な処方=新たな価値観と社会参加が必要だと思う。

 

2)人の「頭」は「共」を生きるために発達した

人を構成する「身・心・頭」についてあらためて考える。

◆「身」は、医者が人を物質のかたまりとみなす肉体である。

◆「心」は、言葉にならない「感じ」である。

人情、感情、気分、喜怒哀楽、美醜、嫌悪、憧れ、爽快感など感性のはたらきというしかない。

◆「頭」は、「心」の志向性と「身」の動きをうながすはたらきである。

どうじに「心」の変化を表現するはたらきでもある。「頭」は、自分の「身・心」を方向づける個人的な閉じだけでなく、自分の「心・身」の意味を、他者に伝えるために社会に開かれた理性でもある。

  人は、古代から絵画や音楽や映像や記号やトーテムなどの表現メディアを創造してきた。その表現メディアの最強のものが、ことば・言語である。

 わたしは、自分ひとりで生きるのであれば、「頭」は不要だと思う。「身」だけで生きられる。「頭」は、他者を前提とするからこそ発達したのだと考える。

人は、植物状態でも生きられる。命が「身」を動かしているからである。寝たきりのまま、意識することなく、呼吸をして消化して生きられる。

 人は、動物状態でも生きられる。「心」の不安や安心や喜怒哀楽を言葉でなく、手足をバタバタさせ、暴力や徘徊など身体の動きで表現できる。これらの「身・心」の二元状態は、動物状態とみなしてよかろう。

しかし霊長類としてのホモサピエンスは、「頭脳」を高度に発達させ、意味をになう複雑で高度な言葉を使用できるようになった。

その能力によって、血縁や地縁だけに限られた人間関係の領域をはるかに超えて、人間として、人類として「あかの他人」との共存・共生社会を作りだし、国家を創設し、貨幣マネーを生み出し、ルールを制定した。

人の「頭」は、「共」を生きるために発達したといえる。今後はさらにロボット人間、アンドロイドと「共棲」する仮想現実(バーチャルリアルティ)にむかう。

◆植物状態  命-→身

◆動物状態  命-→身 + 心

◆社会状態  命-→身 + 心 + 頭 è 家族、他者、社会の形成

 

3)個人の生き方は社会的意味をになう

病院のベッドや介護施設で植物状態や動物状態で生きるとき、「自分はどう生きるか?」などと「自己了解」することなどなかろう。単に生命の力で「身・心」が作動しているだけの意味しかない。

しかしそこには、本人の意識をこえて人命尊重や社会保障制度や医療費負担などの社会的な意味が付与される。

健康な人であっても社会で生きるとき、人は己の生きる意味をいつも意識しているわけではない。

しかしそこにも、本人の意識をこえてその生き方が、社会的な意味を担っているのは避けられない。日本人としてこの日本国で生きるということは、いやおうなく社会的な意味に接続せざるをえない。自立したピンピン元気老人でも認知症の要介護老人でも、国民の一人として社会参加しているのである。

 では自分が生きる意味と社会的意味の関係をどう考えるか。言葉を換えれば、自分が生きる意味の社会性をどう考えるか?

 

4)老人がいつまでも元気さだけを望むのは私利私欲である

たとえば、つぎのような「元気に老後を過ごす」広告が、新聞、テレビ、チラシなどで連日、大量に宣伝されている。

60歳になっても、枯れたくない自分がいる。いくつになっても、夢を追う情熱がある。だからこそ、男ってオモシロイ。年齢に負けることなく、いつまでも輝き続けること。それが、男としての理想の姿ではないだろうか。」

「老けない体は、股間節で決まる! 痛まない、衰えない、健康で若い体を維持する秘訣!」

「死ぬまで寝たきりにならない体をつくる! 生活習慣、食べ方をほんの少し改善すれば“健康寿命”がみるみる延びていく!」

「しつこい怒りが消えてなくなる本 長引くイライラ・ムカムカを一気に解消、自分中心の心理学」

  「70,80洟垂れ小僧、90で迎えがきたら、100まで待てと追い返せ」という戯れ歌がある。いつまでも元気に生きろ、という励ましであろう。

 大家族で職住一体の共同生活を生きざるをえなかった「多子短命」社会では、古老は古稀であり、長命は喜寿であった。老後は、貧しくても悠々自適、のんびりと孫子と付き合いながら天寿・天命にしたがって逝けた。

いまやそういう老後を過ごせる時代ではない。「何もしない」老後の期間が、30年近くもある。高齢化社会の時代にあって、老人の生き方が、「いつまでも元気に!」という価値観だけでよいのだろうか。

それは身・心が欲するがままの、私利私欲ではないか。

身心が欲する「したい・できる」ことを、きりなく「やり続け」ることは、動物状態と同じじゃないのか。

そこには、身・心の欲望を抑制する規範がない。自由を自制する思想がない。 次世代への配慮がない。

世に氾濫している「元気に老後を過ごそう」広告宣伝は、老人の「頭」を「体力」と「気力」だけにしか向かわせない。「唯身教」という若さ信仰である。そこには、生きることの社会的な意味がみえない。

「頭」が社会に向かう人間性の発露が、軽視されすぎていやしないか。

私利私欲がみえみえの実業家が、「若者にまだまだ負けない社会貢献」などと言って、70歳こえてバリバリ元気に活躍している姿は、老成、成熟、人徳、配慮、他者の受容、寛容、ほどほど、まあまあ、諦観などの「共」性のイメージからほど遠い。

 

5)個人主義の尊重が資本主義社会の私利私欲を是とする

 「はじめに言葉ありき」、「人間は考える葦である」、「我思うゆえに我あり」などは、西欧人が残した文言である。人を構成する身・心・頭の三つのなかで「頭」・理性を人の本質とみなす。

そして「心」よりも「頭」を高級上等にいちづける。

 その西欧思考は、理性を備える固体としての人権尊重、個人の自由、個人の主体性などの近代思想につながった。その延長に個人の自由競争を至上原理とする資本主義的価値観が世界を席巻している。

個人主義の尊重が、私利私欲を是とする。私利私欲こそが、成長戦略をひっぱるエネルギー源とみなされる。私利私欲が、社会貢献という名の立派なオーバーコートを着てグローバル市場を闊歩する。

 自由競争市場の勝ち組の価値観が、社会を支配する。弱い負け組みは、社会保障制度で救済される。その原資は、有能で強い勝ち組の納税による富の再配分と保険料や消費税などである。

競争社会だから、必ず勝者と敗者は分かれる。そして、勝者は敗者よりも必ず少数である。格差社会は必然となる。格差と不平等は、紙一重、彼我の立場によって見方がちがう。現代の日本社会は、そのように高度に発達した自由な資本主義体制である。

  その体制の主役は、壮年期/仕事中心世代である。彼らの大多数は、家族と過ごす生活の場から離れた職場こそが、人間関係の中心である。

そこで時間を過ごす動機は、生活のための個人の稼ぎである。稼ぐというその生き方が、社会的な意味を構成する。それは私利私欲を是とする個人主義を基本とする意味づけである。

壮年/職業期世代は、人としての「共」性よりも組織における「個」性として評価される。その「個」性は、契約にもとづく組織的に仕事を果たす役割・責任に限定される。

そこには自由で多面的な多様な人の生活はない。「多様な欲望をもっと自由に解放する」人生からはほどとおい。そういう自由生活は、狂気ともみられる芸術家魂をもった一部の人間にかぎられる。

個人の自由競争を原理とする優勝劣敗が、社会的意味を付与する価値となる。この価値観が、現代日本社会を主導する。

その中心勢力が、壮年期世代にほかならない。

 

6)いまの日本社会は「ゆったり、のんびり」暮らせる世の中か?

人は、おおいなる潜在性をもってこの世に生をうける。人は、身心頭それぞれの多面的な能力を発揮したい欲望をもつ。人は、つねに「他でもありうる」可能性の選択を生きる。

その選択は、潜在能力の一部である。この世で発揮できる各人のDNAの可能性は、さまざまな要因によって限定される。

その内部状態の可能性は、外部条件と偶然性に対応しながら現実性に転化する。

現代日本社会は、人間がもつ多様な欲望を発揮できる可能性において、いちじるしいアンバランス、統合失調である。

潜在力のカオスな「多面的な自然さ」に根本価値をおく往還思想からみれば、仕事中心価値=マネー至上価値の現代日本社会は、一部の価値観にかたよりすぎたあまりに一面的で不自然な社会であると思う。

現代社会は、個人の一面的な欲望に歯止めをかける思想性、個人の多面的な欲望を開放する思想性を欠如した社会である。限定合理性の蛸壺社会、縄張り縦割りの行政機関。

カネをかせぐための仕事中心のいまの社会は、基本的人権、個人尊重、自由主義、個人主義を至上価値とする。強くて優秀な一部の人の欲望実現に都合よく加担する社会思想である。

◆強くて優秀な人の自由競争を保証することが、個人主義の表面である。

◆個人主義の裏面が、弱者と称される人の生活を救済する福祉国家思想である。

自由競争を「つよく」主張する勝ち組個人と救済権利を「つよく」主張する負け組個人が共存する良き社会ではある。

勝者も敗者も権利を自己主張する。「つよい」人間像を理念とする自由な個人主義社会。

このような日本社会は、ゆったり、のんびり、もっと身の丈にあった時間感覚や顔の見える人間関係にもとづく幸福感を求める人にとって、つぎのように住みにくい社会である。

  マネー主義

 現代日本社会は、金銭至上主義である。仕事と生活が本末転倒している。

金持ちが勝ち組。

  合理主義  

現代日本社会は、予定調和を前提にした技術的な合理主義に偏重している。

偶然性、不条理、カオスな清濁混交を過少評価する。 法治国家、ハード管理社会。

  個人主義 
現代日本社会は、個人の自由を、私利・私欲・貪欲の隠れ蓑としている。
個人の自由を「自制」する倫理道徳を教育しない。ソフト共同体思想の崩壊。

  不安思想  

現代日本社会は、個人の自立・独立能力を過大評価している。強い人間像。

人の弱さの過少評価。 寄る辺なき弧人、個人情報保護。カオス分断無縁社会。

  不老長寿願望 

現代日本社会は、人間のもつ多面的な幸福感への思想性が貧弱である。
精神の幼児化現象、王侯貴族なみに飽食した豊かな人がふえた。唯身教信仰。

  上昇進歩信仰 

現代日本社会は、効率、便利さ、メリット重視の単純な価値思考である。

ゆとりがない、直線的な時間認識、現世的功利主義、コスパ損得重視。

 

7)往還思想および共生思想の生き方 ~新たな価値観と社会参加にむけて

現代社会思潮に対抗するアンチテーゼを提案する往還思想と共生思想は、今の日本に蔓延する生活スタイルとは距離をおいて生きる希望を考える。

  マネー主義への対応

アンチ資本主義ビジネス。アンチ公務員税金ビジネス。

学生と老人を中軸とした地域コミュニティビジネスを起業する。地域自治会の制度化。

「公」の法貨とは別に流通する「使途限定」バウチャー通貨の信用システム。

  物質的技術主義への対応、

この世は、不条理・不合理であることを大前提にした限定合理主義と機能主義を基本哲学とする。

カオソフード思想=カオス*ソフト*ハード=ばらばら*ほどほど*きっちり。

  個人主義への対応

個人の自由・独立・基本的人権をベースにしながら共生原理・他者への配慮と社会的義務を一体化させる。主体性概念の相対化。私→共←公

「つよい」人間像の個人意識から「よわい」人間像の共人意識へ。

  不安思想への対応

自助と公助を補完する「参助:近助・互助・共助」をめざして地域コミュニティの形成に取り組む。私→共←公。

支援を受ける根拠は、基本的人権主張ではなく「お互い様」の互助、人情と感謝。

  不老長寿願望への対応

限りある生命、身心頭の分裂性の自覚と協調修練、意識の超越性にもとづく死生観=思想年齢を鍛える。

希望的諦観、則天去私、敬天愛人。

  上昇進歩信仰への対応

時間の循環認識にもとづく自然のリズムにあったゆるやかな生活感を幸福の原点とする。 生命=誕生→成長→安定→退化→消滅

 

8)「もうひとつの価値観」への希望  

生まれてから20歳ごろまで続く少/学業期と65歳ごろからはじまる老/終業期は、「仕事をしない」という意味で生活条件を共有する。このこと自体は、むかしから変わらない。変わったのは、両者が社会を構成する比率である。

その比率が、「多子少老」社会から「少子多老」社会へ真逆に転回した。だから、壮/職業期の生き方を基礎とする仕事中心の価値観が、これまでのように一元的に社会を統制する思想でよろしいのか、とわたしは問う。 

 

◆老人世代の社会参加が、なぜ「若者支援」に帰着するか

仕事に就く前の子どもと学生は、資本主義体制の主役ではない。仕事を退職した年金くらしの隠居老人も資本主義体制の主役ではない。両者とも稼がないからである。

少と老の生活は、資本主義ビジネスの戦いで「個」性を発揮する仕事とは、無縁である。子どもと学生と老人こそが、ゼニカネを追求する私利私欲とは別の原理で生きる可能性をもつ。

  その可能性のキーワードは、子どもと学生と老人が地域コミュニティで生きる「共人・共生・共存・共同・共感・共鳴・共有・共用・共働」などを意味する「共性」である。高齢化社会において、老人世代は、壮年世代とはことなる社会を創造するあらたな社会勢力になり得るのではないか。

往還思想および共生思想は、老人世代があらたな社会勢力として、「若者支援」という世代間交流の試行錯誤にとりくむ実践において、日本の未来に希望を託す。

 

◆「仕事価値」と「もうひとつの価値観」が共存棲み分ける社会イメージ

少子高齢化がもたらす社会的諸問題に正面から立ち向かうためには、少子高齢化をもたらした歴史性に遡って、その原因を考え、その思想性を問わなければならない。そこにたちもどって、人間の生き方として、少年・学業期と老人・終業期の「新たな」生き方に目を向ける。

そして仕事中心価値とは別の「もうひとつの価値観」にもとづく生き方、ライフスタイルを構想する。人間関係の間接状況をこえる直接的な社会参加である。

 

では、仕事をしなくなった老人たちは、老後を生きる価値観をどこにおけばいいのか。

老人世代は、「少子高齢化」社会の少年期世代と、どのような関係性を生きればよいのか。

その価値観がどのようなものになろうとも、仕事中心の価値観と並存共立しなければならない。なぜなら仕事中心の壮年世代が、「世の中を仕切る」ことを否定することはできないからである。壮年期の仕事中心の価値観が、一元的に社会を統制することに、わたしは異論をとなえるだけである。

人生三毛作が構想する社会は、壮の「仕事価値」と少・老の「もうひとつの価値」が並存する制度である。一元的な価値観ではなく二元的価値観である。壮と少・老が共存して棲み分ける国家制度、一国二制度の構図である。

◎壮/職業期世代の人間関係は、権利―義務の契約システムの間接的関係

◎老/終業期世代の人間関係は、配慮―感謝の義理人情の直接的関係

 

◆差異の多様性が共存する構図

この構図は、植物世界と動物世界のあり方に重なる。それは、差異の多様性が共存して棲み分ける世界である。生物の多様性世界には、その構成員に君臨して一元的に統制する価値観は存在しないとわたしは思う。

水族館に行けば、多くの種類の魚たちが、ひとつの大きな水槽で、お互いに「我関せず」という風情で悠然と泳ぎ回っている光景を目にすることができる。それをながめながら、わたしはのどかな感じになる。

アフリカの動物自然公園に行ったことはないので、テレビでみる感想でしかないが、わたしは、動物社会が百獣の王・ライオンを頂点とした勝者/敗者の階層的ピラミッド社会とは思えない。

動物は植物とちがって、動物として生まれたら他者の生命を食って生きるしかない。人間もおなじである。だが動物は、手当たり次第になんでも口にするのではなく、自らの生命が必要とする他種の命は限定されている。その自然な営みである食物連鎖の生態系が、動植物世界の秩序を維持する。

その生態系の原理が「弱肉強食」とは思えない。

樹齢数百年の大樹をみれば、わたしはその姿に感動する。地下に張りめぐらされた見えない根、年老いた太い幹、その先の枝、太陽に向かって繁る葉々たち、争わず、他者の生命を必要とせず、生まれた場所をうごかず、風になびき、悠然とたちつくして年を重ねている。

その生きる姿勢にみとれて、わたしは感動する。「植物人間」などいう言葉は、そのゆたかな木々たちに失礼だと思う。

 

◆心よりも頭を重視する社会思想

自然状態を、「闘争本能にもとづく弱肉強食」、「万人の万人に対する戦い」など考える思想性は、王様や貴族の存在を自然視する特定の立場の主張でしかない。

それは、貴賎、強弱、勝敗、上下などの階層的序列を自然とみなす価値観・思想性を擁護する賢しらな「学者」商売の知恵なのだと思う。

近代文明の発達した人類社会は、植物世界と動物世界に見られる差異の多様性を棲み分ける世界とは、いちじるしく異なる。西洋に発した思考方式は、差異の多様性ではなく、普遍的原理や客観的法則を「真」なるものとする哲学を根とする。究極のひとつの原理を追求する。一神教的な価値観である。

「我思うゆえに我あり」の理性中心の西洋思考は、多様な差異の織りなす現実を単なる一過性の現象とみなす。その現象の背後に潜む本質を真なる実体とみなす。現実のもろもろの事象は、本質の仮像とみなされる。

もろもろの事実に共通する属性や時間の前後に継起する事象の因果関係の解明に、人間の理性を集中させる。感性にもとづく直観よりも理性をはたらかせる分析に価値をおく。心よりも頭を重視する。複雑に錯綜した具体的事象群よりも、それらを抽象化して獲得した普遍的な原理や法則性に価値を求める。

現代社会の理性は、科学的、合理的な思考に極端に偏りすぎている。

 

◆人文科学や社会科学のいう「科学性、客観性」への疑問 ~「もうひとつの価値観」へ

わたしは理科系の人間である。大学時代に「技術とは、客観的法則の意識的適用である」という「現象―物質―法則」三階層の武谷理論にであった。その理論に傾倒し、卒業して情報システムエンジニアとして仕事をするとき、ひとつの強力な方法論となった。

その後、システムの巨大化と複雑性の加速化に直面した。集中システムか/分散システムかというシステム設計論が、おおきな課題になった。

それと密接に関連して、人文科学や社会科学のいう「科学性、客観性」におおきな疑問をもつようになった。人文・社会科学の「学説」は、物質を対象とする自然科学の法則性や工学的技術論とは、根本的にちがう、という感想である。

そこで、わたしの思想転換がはじまった。現象学への関心である。地動説ではなく天動説への転換である。カオソフード=カオス*ソフト*ハードの重層システム論から少壮老/人生三毛作などの往還思想は、その転換の延長にある。

「ひとつの本質的な原理」でもって一元的に社会を統制することは、爆発的に複雑性が増大する現代社会では、不可能になりつつあるのではないか。

ともかく一元的な社会は窮屈である。

これが壮と少・老が共存して棲み分ける国家制度、一国二制度を構想する理由である。壮国家と少老国家の併存である。

個々の現象的な差異の多様性にもっと価値を求めようとする「もうひとつの価値観」は、日本人の「八百万の神々」の深層心境につながることは、いうまでもない。

「合理性の抑制、倫理性の復権」、「身心頭の三元論的人間像、「少壮老→老人倫理」「私→共←公」、「公共の解体→公と共の分離」、「共と天の重視→倫理性」、などを枠組みとする「もうひとつの価値観」を、社会改革の潜勢力としての老人世代の可能性の希望とする。

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