3.2 高齢化社会をもたらした近代思想の合理性と倫理性のギャップ

1)社会保障費の負担はだれがするのか?

2)長命社会の倫理的な問い

3)長命社会をもたらした根本原因 

4)合理性と倫理性のギャップ

 

超高齢化社会、元気老人と痴呆老人の増加、延命治療、社会保障費の増大などのテーマを、「個人の生き方」と「社会の在り方」の関係性において考える。

往還思想は、個人の生き方=生命論=死生観=人生論などの人間像を対象とする。共生思想は、この人間像をベースにして「社会の在り方」を対象とする。

共生思想は、{個人*縁*社会}という関係性の「縁」において、老人世代に固有の「新たな社会参加」の仕組みを構想する。

往還思想および共生思想は、高齢化社会という「社会の在り方」をもたらした近代思想の人間像と価値観を問いなおす。

ここでは、近代思想の合理性と倫理性のギャップを確認する。このギャップが、「豊かな社会」に閉塞感と社会保障費の増大などの諸問題をもたらす根本原因だと考える。

 

1)社会保障費の負担はだれがするのか?

医療、年金、生活保護、介護にかかわる社会保障費(約150兆円)が拡大の一途である。未来世代へのツケである国家財政の借金が、1千兆円にのぼる。

この40年間で平均寿命が10歳以上延びた。男80歳、女性85歳になった。60歳以上の老人は4000万人に近い。日本の総人口の約3割から4割になる。超高齢者の患者や認知症や要介護者が増える。認知症者と潜在的な予備軍をあわせて、800万人にもなるそうだ。

1961年に国民皆保険制度が導入された。その時点の国民医療費は、0.5兆円。1970年で2.5兆円。1980年で11.9兆円。1990年で20.5兆円。2000年で30.1兆円のうち高齢者医療費が14.6兆円の48%。

そして、2010年度では、37.4兆円のうち高齢者医療費が20.7兆円の約55%。医療の高度化と高齢化がすすみ、40年間で約73倍にふくらむ。当時の大学卒初任給などとの比較で物価上昇率を考慮しても、30倍ぐらいにはなるだろう。今後も、毎年1兆円をこえる規模で増加が予測される。

  医療製薬技術の進歩は、これまでの難病への処方を可能とした。ある難病のための錠剤を1日4錠服用すれば、1ヶ月で33万円になるケースがある。

2012年、介護保険の費用は、8.4兆円。団塊の世代が75歳以上になるのが2025年。介護保険の費用は、いまの2.36倍の19.8兆円になる見込みらしい。

だれが、これらの費用を負担するのか?

 

2)長命社会の倫理的な問い

わたしたち老夫婦ふたりが、2014年に支払った国民健康保険料と介護保険料の合計は、xx万円である。年金収入にみあった所得税も納めている。

わたしは、相互扶助という倫理的な意識で税金や保険料を拠出しているわけではない。単に、国家の法律制度にしたがう国民の義務感のゆえである。

幸いにふたりとも元気に過ごしている。歯医者に行くぐらいで、多額な医療給付も介護給付も受けていない。古希もすぎたのだから、メタボ検診などの健康診断にもいかない。

わたしは、自覚症状がない状態では病院にいかない覚悟である。医者は、老化現象であっても、老化とはいわずに何とか病気を見つけてくれるからである。だがわたしは、身心頭の不調が出てきたら、その原因は病気ではなく自然な老化現象なのだと、自分勝手に判断したい。

どうしても生活に支障が生じて、自立できず苦痛や不快が増すときは、医者に治療と施薬をお願いしたい。

70歳をこえて寿命もちかいのだから、老化はあたりまえである。「早期発見」よりもなるべく「手遅れ発見」を望む。自立して食事と排泄と日常のまともな会話ができなくなったら、食事を減らし、なるべく老衰を進行させてほしい。生物の自然な死に方を従容としてうけとめたい。有限な個人の新陳代謝と世代交代は、社会が存続する条件の自然法則である。

往還思想は、このような老後の生き方を「倫理的」とみなす。倫理的とは、「自然さ」にほかならない。だから、老人福祉関係の統計データを新聞などで見るにつけ、さまざまな「不自然さ」の想念がうかぶのである。

この現代社会の在り方の「不自然さ」が、自分の老後の幸福感を疎外する。

・そもそも現代の長命は、倫理的なのか。

・医療と製薬の技術的合理性と倫理的生活性のギャップをどう考えるか。

・長生きを抑制する思想や制度を考えることは、基本的人権に反するのか。

・社会保障制度の負担/払うと受給/もらうとの関係性をどう考えるか。

・社会保障制度における壮年世代と老年世代との世代間格差をどう考えるか。

・相互扶助を原理とする社会保障制度が、カネのバラマキだけでいいのか。

・高齢者の医療費の自己負担を1割から3割にアップするのは、反倫理的なのか。

・要介護の痴呆状態になることへの備えとして「老人義務教育」が必要なのではないか。

・退職して無為にすごすわたしは、社会的責任や義務を考えなくてもよいのか。

 

3)長命社会をもたらした根本原因  

長命社会をもたらした原因を、近代思想のつぎのような関係として把捉する。 

●倫理性―→人間の自由と人権尊重、福祉国家制度  → 長命

●合理性―→医療、製薬、保健、栄養など科学技術の発達→ 長命

  西洋に発した近代思想は、すべての人間を、性別や身分や世襲や宗教的束縛から解放した。近代国家は、個人が人間として生きることの「自由、人権」を、天賦の自然権として保証する。現代の長命社会をもたらした淵源のひとつは、近代思想にもとめられる。

日本の歴史では、江戸時代が近代以前の近世である。1867年の明治維新により近代国家をめざした。そして1945年の敗戦により民主主義国家に向かった。現代の日本社会は、西欧に発した近代思想を基盤としている。

18世紀、西欧啓蒙思想の柱は、人間の尊厳、自由、平等、人権尊重という理性重視である。その理念は、合理性とともに清教徒的な倫理性をも意味した。

倫理性とは、人類が判断する善と悪、正義と不正の根本、最終審級の価値基準である。だれも否定できない普遍的な価値観である。現代社会の倫理性とは、人道主義のヒューマニティである。

たしかに近代思想の合理性と倫理性は、双子の兄弟、銅貨の裏表であったハズである。

 

4)合理性と倫理性のギャップ

ところが、高齢化社会において、自立して生活できない認知症や要介護状態の老人がふえた。もちろんピンピン元気な高齢者もおおい。自立できても居場所のない、生きがいをもてない老人もふえた。

近代思想の「人間の尊厳」という倫理性が、延命治療や精神病や要介護の現場において、現実の「人間の尊厳」に危機もたらしている。近代思想がもたらした長命は、幸福な長寿だけではなくなった。認知症という要介護状態を生きるありさまは、「人間の尊厳」などと声だかに唱える理念的すぎる言葉をむなしくしている。タテマエとゲンジツのギャップである。

長命社会の倫理性を問うことは、近代思想の「人間の尊厳」という倫理性の自己言及もしくはパラドックスである。「人権尊重」という個人の権利主張の行き過ぎが、「人権侵害」をもたらしているのではないか。

「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。人権尊重という権利を倫理性とする現代社会は、現実において倫理性の問題を投げ返す。

 

●現代社会において、合理性と倫理性は、いかなる関係にあるか。

現代思潮を一般化していえば、個人の尊重=自由競争の過剰な合理性が、個人の尊重=倫理性を侵食簒奪している。

資本主義社会における科学的合理性は、その競争原理をかちぬく必須の思考様式である。目的手段の合理性こそが、価値観の基礎である。

だから人情的倫理性などは、科学技術の対象にはならない。競争原理においては、法律を犯さないかぎり手段をえらばない。

手段の倫理性や道徳感情は、違法か適法かの判断に回収される。

 

●価値合理性を科学的に、技術的に考えることができるか。

法治国家における社会システムの合理性は、義理人情の倫理性を方法論的に対象化できない。

医学の合理性と介護の人情性の隘路、亀裂、陥穽の隙間において、認知症の要介護老人と支援家族がうめいている。ひとりの親族の認知症は、介護する家族の生活に波及する。

医学は、「身」を物質的に診断する。介護は、「身」だけでなく「心」にも対応する。医者は、老人の肉体をひたすら生かす。介護ヘルパーは、老人の感情をうけとめる。

医者と介護ヘルパーのあいだに大きな「価値観、思想性」の断絶がある。

社会の在り方が、合理性と倫理性のギャップの統合失調の状態にある

個人の在り方が、社会の在り方を反映して、身心頭の人間的統合失調状態にある。

合理性と倫理性のギャップが、「豊かな社会」に閉塞感をもたらし、社会保障費を増大させる根本原因だと考える。

現代社会の「過剰な合理性」と「倫理性の劣化」を問いなおすことが、「心から豊かな」幸福感をもたらす「新たな価値観」にむかう起点となるのではないか。

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