1.2 認知年齢とアンチエイジングについて  

 

前章で以下の新聞記事を引用した。

**引用

定年間もない60~64歳の男性では、3人にひとりが「自分は暦年齢よりも11~15歳若い」と答えた。65歳~69歳の前期高齢者の5人のうち4人が、自分は実年齢よりも若いと思っている。

いつまでも若い心を持ち続けるのに一役買う認知年齢を意識して過ごしましょう!

生きている限り自分の能力の積極的な活用を心がけ、真の若さを保ちましょう!

それぞれの年代で心も身体も美しく輝いて生きましょう!

年だからといって引っ込み思案になることはありません!!

――

わたしの基本的なテーマは、老後を生きる思想性、人間関係のあり方、老人の地域コミュニティにおける役割などである。本章では、そういう自分の問題意識を底流におき、「認知年齢が若い」という社会状況について、以下のように考察をすすめる。

1)わたしの認知年齢は?
実年齢に沿って老後を過ごせばいいと思う。あえて認知年齢を意識しない。

2)なぜ「認知年齢」という年齢意識がでてきたのか?
平均寿命がのびて元気老人がふえた。要介護老人もふえた。個人差が大きくなったから。

3)認知年齢は身心頭の三つの年齢意識である
認知年齢 = 身・体力年齢 + 心・気持年齢 +  頭・思想年齢(=精神年齢)

4)若さと老いのプラス・マイナス
若さ(未熟、健康)と老い(老成、衰退)のプラス・マイナスは対照的である。

5)「自分は実年齢よりも若い」と認知するとはどういうことなのか?

   若さのプラス面だけ、老いのマイナス面だけをみている。片手落ちだと思う。未熟な思想。

6)アンチエイジングを推奨する現代日本人の思想性
商業主義、物質的技術主義、個人主義、不安思想、不老長寿願望、上昇進歩思想

7)長命は寿ぐべきことなのか
身体年齢が若いだけの「未老人」の長命は、長寿ではないと思う。

結論:

わたしはアンチエイジングではなく、ウイズエイジングの思想年齢を鍛えたい。

 

1)わたしの認知年齢は?

 認知年齢とは、暦年齢つまり実年齢に関係なく、個人が自分の年齢について主観的に認識している年齢を意味する。「定年間もない60~64歳の男性では、3人にひとりが、自分は暦年齢よりも11~15歳若い」と答える。

では、わたしは「自分のことを何歳だと、とらえているか」と自問してみる。「キノシタさんは自分の認知年齢を何歳だと思いますか?」と質問されたとする。うーん?とわたしは困ってしまう。

68歳のわたしが自分の認知年齢を、たとえば60歳だと認知するとしたら、それはどういうことを意味するのだろうか?

とりあえず思いつくのはつぎの三つである。

  自分の過去と比較する
いま68歳だけど、60歳のときから何も変わらないなあ。だから自分の認知年齢は60歳だ。

  自分の周囲のひとたちと比較する
自分は同世代の連中よりも若く見えるので、60歳の後輩世代と同じぐらいだと認知しよう。

  自分が子供だったころに接した年寄りの姿の記憶と比較する
自分の父や叔父さんの68歳前後のむかしの姿は、今の自分より老けていたような気がする。
むかしの人より自分は10歳前後は若く見えそうなので、自分の認知年齢は60歳でよい。

 

 しかし、この三つのどれも自分はあまりしっくりしない。

上の③比較はまあ納得できるが、どのくらい若いのかは実感できない。どうも自分は認知年齢というものがよく分からない。68歳の自分の年齢は、比較すべがないから68歳だと認知するしかない。

わたしの回答は、新聞に見た調査結果の「65歳~69歳の前期高齢者で実年齢と同じまたは上」と答えた人の20%グループに入る。5人にひとりの同類仲間がいることはこころ強い。後述する往還思想や現代版「楢山節考」を共感的に語り合える可能性があるかもしれないと期待する。

 ところで、そもそもなぜ認知年齢などという概念がでてきたのだろうか?

 

2)なぜ「認知年齢」という年齢意識がでてきたのか?

 わたしは学者でも専門家でもない。だから以下の記述は「認知年齢」という言葉にかんする自分の印象である。

 食料事情と医療技術、衛生・福祉介護に関する社会保障制度などの事情により、日本人の平均寿命は男が80歳、女が86歳ぐらいまで延びた。この先もっと延びるそうだ。5年ぐらい。

ここでいう寿命とは、生まれてから今までの時間である。この数字を年で表現したものが年齢。この暦年齢は、意識に関係なく個人の判断の余地はない。

平均寿命が延びて、たしかに今の高齢者たちは、戦後数年の時期に比べて元気である。その外見は数十歳以上も若くみえる。しかし、いっぽうでは要介護老人や痴呆老人や寝たきり老人も増えている。年齢は同じでも、その心身状態には、はなはだ大きな個人差がある。

ここから、その実年齢に対して、「自分のことを何歳だと自己評価する」認知年齢という言葉が出てきたのだ、と思う。心身状態の個人差が、認知年齢のちがいに関係する。

健康で活動的で生活満足感がおおきい高齢者は、認知年齢が暦年齢よりも若い。では、病気がちで貧乏で、あるいは痴呆症で要介護の老人は、認知年齢が暦年齢よりも老けている、といえるのだろうか。

そうだとすれば、認知年齢とは、いつまでも元気で強く生きられる人の主張ではないか。老けたくない、老いたくない、若くみられたい、いつまでも活躍していたいという強者の論理。老化にあらがうアンチエイジングの姿勢をもった人生の成功者、勝ち組。そのような人の視点を基準にしているような気がする。

そのような「認知年齢」論は、現代日本人のどのような社会的思想性にもとづくものであろうか?

そのような「認知年齢」論は、超高齢化社会においてどのような社会的意義をもつのであろうか?

 

3)認知年齢は「身・心・頭」の三つの年齢意識である

儒教に「修身・斉家・治国・平天下」という言葉がある。江戸時代から戦前までは、「修身」といえば身体を鍛えるだけでなく、「倫理・道徳」までも意味した。「修身・斉家・治国・平天下」の前には、「格物・知致・正心・誠意」がおかれている。

ここから「正心・誠意」をとりだして「修身」と組み合わせ、「修身・正心・誠意」としてみる。そして「誠意」を言葉の誠をつかさどる頭脳に対応させる。

そうすれば、「修身・正心・誠意」は、ひとりの人を構成する「身・心・頭」に関する儒教的な規範を示すと理解できる。現代の脳科学は、心が左脳のはたらき、頭が右脳のはたらきだと教える。

 

人間は、子供から大人に向けて成長する。そして大人から老人に向けて衰退する。人は生きて行く、死に向かって逝く。その時間の過ごし方の儒教的な人生論の指標が、「身・心・頭」の鍛錬であると考える。

「身」は、生命を維持する身体・器官および脳から構成される肉体・物質性である。

「心」は、喜怒哀楽の身体的な感性・感情および自然への畏怖や宗教心などの超越性である。

「頭」は、言葉をあやつる理性で論理・物理・数理などの理路による納得への欲求、思想性である。

認知年齢が由来する「同じ実年齢であっても生活状態には個人差がある」ということは、身・心・頭それぞれの成長と劣化の程度が、個人ごとに違うということに換言できる。

したがって、認知年齢は、①身体能力を示す体力年齢、②心の持ち方を示す気持年齢、③頭の働きを示す思想年齢の三つの自己意識の合成として定義できる。

 

認知年齢 = X:体力年齢 + Y心:気持年齢 + + Z:思想年齢

体力重視  X >> YZ

気持重視  Y >> XZ

思想重視  Z >> YX

 

認知年齢は、「年齢」とはいっても暦年齢=実年齢と違って、時間尺度の数字で示すものではない。体力の尺度、気持の尺度、思想の尺度それぞれの評価指標が必要となる。

 

4)若さと老いのプラス・マイナス

「若さ」は、「老い」と対立する言葉である。老人は、「年をとっている人」つまり「若くない人」。

若者は、「年をとっていない人」つまり「老いていない人」。

この両者は、身体的にはつぎのように対照化される。

若者は、活動的で、好奇心が強く、溌剌として、元気がよく、病院にいかず健康で、動きが機敏で、希望をかたり、シャキシャキ、ピンピンしている。陽/陰の陽。プラス/マイナスのプラス。動/静の動。健康/病気の健康。未来/過去の未来。生/死の生。

老人は、気力をなくして、活動的でなく、溌剌としていない、ボーっとして元気がない、身体が衰えた老体に老骨、愚痴をかたり、医療費と社会保障費をふくらませ、ヨレヨレ、ショボショボしている。元気が過ぎれば老害、老獪、老醜をさらす徘徊老人となる。陽/陰の陰。プラス/マイナスのマイナス。動/静の靜。健康/病気の病気。未来/過去の過去。生/死の死。

身体年齢の視点からは、若さは肯定的なポジティブイメージ。老人は否定的なネガティブ像である。

 

いっぽう、社会生活においては、若さと老いがつぎのように対照化される。

実年齢にふさわしいと思われる常識的な判断やふるまいが発達していない人の状態を、「あのひとは幼い・精神年齢が低い・大人になっていない・あいつはまだ若い」などと表現する。

「若者」は、未熟、幼い、青くさい、子どもっぽい」、「経験不足、未完、成長途中」、「あいつはまだ若い、だから任せられない、修業・修行が足りない」、「体だけは大人だが精神は幼稚だ」、「年甲斐もなくみっともない」などという表現。ここでの若さはマイナスイメージ。身心頭のバランスがとれていない、不安定。未熟/老練の未熟。

「老人」は、老成、成熟、経験豊富、大人の風格、頼りになる、人格者。ここでの老いはプラスイメージ。身心頭のバランスがとれている、物知り、円満、中庸、安心・安定感。未熟/老練の老練。

 

5)「自分は実年齢よりも若い」と認知するとはどういうことなのか?

「年だからといって引っ込み思案になることはありません。いつまでも若い心を持ち続け、生きている限り自分の能力の積極的な活用を心がけ、真の若さを保ち、それぞれの年代で心も身体も美しく輝いて生きましょう!」

わたしは、こういう主張にすなおに納得する気分にならない。天邪鬼かもしれないが、つぎのようにチャチャをいれたくなる。

・「年だからといって引っ込み思案になることはありません」

 老害とか老醜とか年寄りの冷や水とかいわれる言葉もありますよ。

・「いつまでも若い心を持ち続ける」

いつまでも成長しないで子どものままの未熟な心でいたいのですか?

・「生きている限り自分の能力の積極的な活用を心がける」

生きるには限りがあり必ず死ぬのだから、死への準備はどうするのですか?

・「真の若さを保つ」

「真」の若さとは?、若さに「真」と「偽」があるのかしら?

・「それぞれの年代で心も身体も美しく輝いて生きましょう」

「心も身体も」だけですか?、「頭」が美しく輝いて生きるのは、どうでもいいのかしら?

 

「認知年齢の若さ」は、老化にあらがうという意味でアンチエイジング思想と同根だと思う。私は、アンチエイジング派ではなく「年そうおうに老化と共に生きる」ウイズエイジング派だから、「自分は実年齢よりも若い」とは認知しない。だから「自分は実年齢よりも若い」と認知するアンチエイジングの気持ちは分からない。ただ、その気持ちをつぎのように推察するしかない。

①「若さ」のプラスイメージを維持したい

②「老い」のマイナスイメージを避けたい

③心身を一体とみなす

④頭については言及しない

⑥「若さ」のマイナスイメージに言及しない

⑦「老い」のプラスイメージに言及しない

 

6)アンチエイジングを推奨する現代日本人の思想性

老後を生きる思想性、人間関係のあり方、老人の地域コミュニティにおける役割などの問題意識を底流におき、アンチエイジングを煽り立てるような社会状況を、現代日本人の思想性の面から観察してみる。

そのキーワードは、商業主義、物質的技術主義、個人主義、不安思想、不老長寿願望、上昇進歩思想である。

 

①商業主義  資本主義思想

「アンチエイジング」は、ひとつの商品経済市場のビジネスモデルである。サプリメントだの化粧品だの身体を若くする商品やフィットネスクラブや老人向けの旅行ツアー広告などが、高齢者有名人をモデルにして、新聞やテレビにあふれている。多くの人が、それらに金をはらって若さの維持をもとめる。

 

②物質的技術主義  科学的合理思想、自然制御思想、

「アンチエイジング」は、先端的医療技術の実証的なビジネスモデルである。医療技術は、身体を物質のかたまりの肉体とみなす分子生物学を根拠にする。生命力が自律的に作動する身心頭を、物質の法則性に還元する。心や頭の現象も脳の物質的な動きとして解剖し、治療・投薬を通じて自律的な自然の生命を人工的・技術的に制御する。

多くの人が、延命医療の患者になって長命となる。その患者が、病床で幸せな人生を過ごしているかどうか、医療技術は関知せず責任はとらない。医者の責任は、肉体を殺さないことだけである。

医療技術は、人生論や死生観など「人間の幸せな生き方」からは中立である。

 

③個人主義  生きる権利 国家の義務

「アンチエイジング」は、人命尊重、基本的人権、生きる権利、福祉社会国家など戦後の日本国憲法の思想と符号する。

多くの人が、長命社会を生きる社会保障を国家にもとめる。年齢に関係なく「健康で文化的」に生きる権利が、金科玉条となる。事故や障害や病気や老化など自分の不幸に対するあきらめ・諦観思想は、排除される。

老衰して社会的役割も果たせず、文化的生活もできない老人といえども、基本的人権と生きる権利にもとづき、選挙権は与えられ、福祉を国家の義務として要求する。強者の富の再配分を弱者の社会的権利として主張する。

その費用負担は、家族の「自助」と税金と社会保険の「公助」である。高齢化社会の医療費は増額の一途をたどる。社会制度しての「共助」の仕組みはない。

 

④不安思想  寄る辺なき弧人  共生思想の喪失

「アンチエイジング」は、個人が自立して生きる自己責任への意識でもある。少しまえまでは、大家族制度や地域共同体で受け入られる老人の居場所があった。しかし、少子高齢化の核家族と地域コミュニティの崩壊により、安心して人にたよって老後を過ごせる老人の居場所がなくなった。近助・互助・共助の不在。

生活保護の受給を恥じる気持ちを持つ人もおおい。公助を拒否し自助の限界で孤独死するニュースも絶えない。老後への不安が、いつまでも元気にあり続けねばならないアンチエイジングに拍車をかける。その不安は、アンチエイジング・ビジネス市場の繁盛につながる。

 

⑤不老長寿願望  王侯貴族なみに飽食した豊かな人がふえた

「アンチエイジング」は、むかしの「不老長寿」願望の現代版である。むかしは一部の王侯貴族が「不老長寿」をもとめ、少君万民制度におけるほとんどの人民衆生は、あの世での「往生極楽」をねがった。

しかし王侯貴族なみに飽食して豊かに生きる現代日本社会の多くの人が、「往生極楽」よりも「不老長寿」にあこがれる。多くの人が、金に代えて我が身の若さの維持につとめる。

 

⑥上昇進歩信仰  直線的な時間認識 現世的功利主義

「アンチエイジング」は、可能なかぎりいつまでも上昇し進歩することに価値を求める思考である。老化や退歩や衰退に価値を認めない。その時間意識は、はるかな過去、いまの現在、ずっと先まで続く未来という直線思考である。

生死はめぐり、還暦で折り返し、上って下って、死んで土に還るという循環思考の時間意識とはちがう。空間的には、この世だけに価値をおく現世的功利主義である。生まれる前の場所、死んで還る場所である「あの世」へ超越する思想性は、アンチエイジングにはないようだ。

 

7)長命は寿ぐべきことなのか

アンチエイジング派は、長命を長寿とみなすだろう。100歳近くになっても元気にばりばり活躍されている高齢者もおおい。そういう人に文句をいう筋合いはない。特別に強く立派なひとたちだ。

しかし、世の中の大勢は、元気で強い人間だけではない。年そうおうにホドホドに生きて死ねばよいと考える人もおおい。わたしもそういうひとりである。

「長命は、国の財政負担が増える。100歳まで生きることは国益にそぐわない。長生きは金がかかり税金の無駄遣い。介護のため仕事を辞めざるを得なかった。長生きは親族に迷惑をかける。」

このように考える人は、長命がすなわち長寿だとは思わないだろう。

「寿ぐ」ということに関連して、平成の天皇陛下即位20年に際した記者会見で皇后陛下が、つぎの発言をされた。

**引用

皇后陛下:

高齢化が常に「問題」としてのみ取り扱われることは少し残念に思います。90歳、100歳と生きていらした方々を、皆して寿ぐ気持ちも失いたくないと思います。 

新聞記者のコメント:

高齢者が社会にかける負担ばかりが話題になるけど、振り返ってみれば日本には還暦や古稀を祝う伝統があったではないか。

――

つぎに1934年生まれの中村メイコ(女優)のインタビュー記事を引用する。

 

**引用

記者:若々しく、明るく、前向きで、いつも周りを笑顔にする。年齢を重ねるにつれて、

「老い」を心から楽しんでいるようですね。

中村:

老いは否定するのではなく、一緒に生きたほうが楽ですね。疲れがとれなくなった、夜中に目が覚める、・・・<しめしめ、私の体は正常に老化しているぞ>と思えば気持ちが軽くなる。根っこからの明るい性格なんですよ。父も母も、年をとるのは悲しいとか嫌だとか、一切言いませんでした。両親のそういう考えを、私も受け継いでいるかもしれません。

過去はひきずりたくない。ものごとへの執着がないから、お迎えがくることを怖いと思ったことはありません。シンプルであることは、いいですね。この先の人生、おしゃれだけでなく、生き方もまたシンプルでありたいと思っています。

――

<しめしめ、私の体は正常に老化しているぞ>という発言は、なんとも軽やかで飄々とした枯淡の風情である。この心境は、フィトネスクラブでひたすら汗を流すアンチエイジングとはちがうような気がする。中村メイコさんに老成や成熟という意味での精神性を感じる。彼女は、長寿・長老の域に達していると思う。精神性をそなえない身体年齢が若いだけの「未老人」の長命は、長寿とは思えない。

数年前に「金さん銀さん」という100歳近い姉妹が、テレビに出演して話題になった。名古屋弁をつかった愛らしい挙動が、全国のリビングの団欒をなごやかにする時間をもたらした。家族に囲まれて、子供みたいに可愛い老後の理想の姿であった。

ほとんどの人が、皇后様のいわれるとおり、金さん銀さんの長命を寿ぐ気持ちをもっただろう。それは、金さん銀さんが「社会に負担」をかけないからだけでなく、こだわりのなさ、老後を自然体でふるまう、その姿態に長寿を感じさせたのだと思う。

 

いっぽう、平成20年ごろ高齢者医療健康保険制度改革が問題となったとき、「老人ははやく死ねというのか!姥捨て山か!」という非難が轟々としてマスコミをにぎわした。

わたしはそういうマスコミ論調や社民党などの政治家の発言に、内心おおいに違和感をもった。「姥捨て山でなにが悪いですか?」という気持ちをもったのである。

自分の老化と衰退が進行し、介護や医療などの社会負担がおおきくなったとき、自分はその事態にどう対応すべきか?

老化と衰退は、自然なことだと従容として諦めたい。延命治療をうけながら長命を維持することが、「長寿」とは思えない。自然体で弱まっていきながら地域コミュニティに自然に受け入れられることが「長寿」ということではないかと思う。

 

結論: アンチエイジングに対抗するウイズエイジングの精神年齢を鍛える。

①「若さ」のプラスイメージを維持したい  ===>いつまでも若いと思われたくない。

②「老い」のマイナスイメージを避けたい  ===>老成した人格者をめざしたい。

③心身を一体とみなす        ===>身心頭のバランスをとって老化したい。

④頭については言及しない     ===>身心を統治する頭の思想・死生観を鍛えたい。

⑥「若さ」のマイナスイメージに言及しない =>老人の社会的役割として若者を応援したい。

⑦「老い」のプラスイメージに言及しない ==>老いが長寿となるような老後を過ごしたい。

 

ドイツの哲学者ヘーゲルに「精神現象学」という大著がある。そこでの精神とは、知識や判断の理性レベルが子供から大人に向かって発達するように、歴史に生きる人類全体の理性が、かぎりなく究極の絶対知に向けて進化上昇するということらしい。

ここでは個人の身体年齢や気持年齢には関係のない個人をこえた社会、国家の歴史・年輪認識がある。その認識をあえて「頭のはたらき」の思想年齢に対応させる。そしてその思想年齢にかんする思想性をつぎのように解釈する。

神が世界を創造した。神は人間を創造したが、人間は罪を犯して堕落した。しかし神は人間を動物とはちがって、人間に言葉をつかう知的能力を付与した。知的能力とは、混沌を克服して真善美をめざす合理性である。人間は、合理的能力にもとづいて自然を制御できる。この世の社会のできごとは、矛盾と対立の正反合の弁証法をくりかえす。繰り返しながらも循環ではなく、究極の絶対知をめざす。歴史は、ジグザグながらも頂点をめざして直線的に進歩発展する。やがて究極の知性がつかさどる天国に救済され、人間の歴史は終焉する。原罪を許されて復活・再生した天国は、不老長寿の世の中となる。

 

いっぽう、アジアという東洋に位置する日本民族は、縄文の世から狭い日本列島の風土で生きて歴史を築いてきた。その精神性は、一神教のキリスト教とは異質な八百万の神々たちと共生する自然との一体思想であった。

日本は、明治維新により近代文明国家をめざした。キリスト教風土の西欧近代思想を追った。当初の「和魂洋才」が「脱亜入欧」に代わり、列強と伍す帝国主義国家をへて、反西欧の天皇制民族主義国家になり、戦争に突入、そして負けた。戦後の日本国憲法のもとで、日本社会は、徹底的な「脱日入欧」・「洋魂洋才」・アメリカ追随国家になった。

 

このような粗っぽい描写ではあるが、現代日本社会のアンチエイジング風潮は、根底的に西欧近代思想に符号すると思う。

共に生き、お互いに自然に依存しあう「共生思想」を喪失した個人主義。それと表裏一体の不安思想がもたらす寄る辺なき弧人のアンチエイジングの風潮。

それに対抗するためには、戦前をこえて明治維新をこえて、はるか縄文・アイヌの精神性まで遡らなければならないのではないか。それをベースに超高齢化社会に向かう現代版「楢山節考」の基礎とすべきではないか。

このような方向をめざして、老後を生きる思想性、人間関係のあり方、老人の地域コミュニティにおける役割などのテーマをさらに考えてく。

以上 1.3へ