4.5 生活感覚にねざした「道徳」の実践   2014年11月17日

 

●伝統的な「倫理学」知性への違和感

前回は、義理、条理、道理など、もっと生活感覚にねざした「倫理」が語られるべきではなかろうか、という自問でおわった。それは、伝統的な「倫理学」知性への違和感である。

その倫理学は、西欧思想の形而上学であり、日本人の生活感覚にねざした「道徳」の実践にむすびつかないと思うのである。西欧思想の自由な合理主義が、生活者感覚の倫理性を隠蔽しているのである。なぜそのように考えるか。

だってヨーロッパ諸国は、理性的・合理的な科学技術でもって帝国主義国家となり、世界各地を自らの植民地としたじゃないか。キリスト教の宣教師たちは、インカ文明をほろぼす軍隊の水先案内人だったじゃないか。アメリカにわたった清教徒の子孫たちは、西部開拓の名でもって原住民を追っ払ったじゃないか。黒船で太平洋をわたり江戸幕府に無理やり開国をせまったじゃないか。

そこに倫理性があったのか。プラトン以降の西欧哲学は、資本主義的自由競争がもたらす「非倫理性」と「三位一体」(神=父+子+聖霊)のキリスト教神学が矛盾しないように、論理=観念体系=思弁=形而上学をこしらえることへの「虚しい」格闘=倫理性の隠蔽であったのじゃないか。

 

江戸時代までの我が日本の倫理的知性は、縄文文化を基底とする神道に中国伝来の仏教と儒教を積みかさねて混淆した「万物一体」思想であった。それが、明治維新を契機として西欧思想へなだれをうって方向転換した。そして自らも帝国主義国家となり、西欧列強を後追いした。「万物一体の仁」を、「八紘一宇」、「五族共和」の国家主義思想に換骨奪還した。そのあげく戦争に負けた。

2014年のいま、明治維新から約150年、敗戦から約70年。戦後70年の日本人の常識的な知性は、西欧思想にほとんど同化したといっても過言ではなかろう。日本伝統の「八百万の神々」・「万物一体」思想が、欧米流の「「三位一体」思想に敗北したのである。それでいいのか。

 

自分もすでに70歳をすぎた。この世の人生の後始末、あの世への旅支度の余生にはいった。そして、老人倫理:「延命治療をしてまでも老人が長生きするのは倫理的か?」を妄想テーマのひとつとして、このような駄文を書いている。

A;「長生きして家族や人様にめいわくをかけたくない」と思う人はおおい。「人様にめいわくをかけない」という思いは、ほとんどの日本人の生活感覚である。それは日本人にとって伝統的な「善=道徳」観念だろう。

しかし一方では、B;「人権尊重、人命尊重、生存権」の保証は、民主主義国家の根幹である。そのために社会保障制度が社会システムとして設計される。そのシステムは、年々増加する医療費用と介護費用をだれか負担するのかが柱になる。

このA;B;の関係を整理して了解したいということが、老人倫理のテーマであり、かつ世代間倫理のテーマである。

 

●生活感覚にねざした「倫理」の考え方

生活感覚とは、知識や論理というよりも、感情、心情などの気持ちである。その気持ちの根底は、先祖からうけついできた日本文化、土着思想の伝統的な感じ方である。それは、自分と他人の行動をみたときの「気持ち善い・悪い」の感情である。「気持ち善い・悪い」は、自他への「尊敬と軽蔑」と表裏一体である。

 生活感覚にねざした「倫理」をムズカシク考えることはない。日々の生活に少しの反省・自省・自制の時間をいれる生き方を「倫理的」だと考えればよい。

・ふだんの生活は、「気持ち善い・悪い」、「尊敬・軽蔑」の中間点(ほぼゼロ付近)である

・「気持ち善い」おこないは、なるべく記憶しておこう。機会があればまた実行しよう。

・「気持ち悪い」おこないは、避けよう。二度とやらないように自分と約束しよう。

・尊敬したくなる他人の言動に接する機会をなるべくもって「気持ち善く」なろう。

・軽蔑したくなる他人の言動に接する機会があったら「気持ち悪く」なろう。

このように考えるポイントは、つぎの点である。

倫理や善悪の「基準」や「内容」があらかじめどこかに存在するわけではない。

倫理や善悪の「基準」や「内容」は、生活のなかで形成される人格に依存する。

倫理的生活とは、人格形成を意識する日々の実践の反省である。

しかし、個人の倫理的生活の全体が、社会と国家の倫理性を保証するものではない。

 

このポイントを哲学的、現代思想風にいえば、つぎのようになる。

 ・これまでは、「本質存在」、「在る」ことの客観性、普遍性、法則性を考えた。

 ・これからは、「事実存在」、「為すー成るー在る」の運動性、個別性、自律性を考える。

現代思想の「倫理道徳」は、彼岸に超越的な絶対審判者を想定する形而上学ではない。一神教的な「上から目線」を否定する。西欧流の神=「三位一体」原理は破綻したのである。絶対主義は、その根拠をうしなった。相対主義の世の中になった。「神は死んだ」、「何でもアリ」が世界の常識になった。

絶対的な原理なき相対主義の世の中を生きる「倫理」の考え方は、「気持ち善い・悪い」と「尊敬と軽蔑」の体験重視である。その体験を反省しながら生活感覚にねざした倫理感覚が成長し体内化していく。あらかじめどこかに善悪の基準=本質が存在するのではない。生活にねざした倫理感覚は、「為すー成るー在る」の運動性のなかで「事実存在」となる。日々の生活の「反省」によってこそ、倫理感覚が鍛えられるのである。

反省という修練をかさねて、その人なりの倫理感覚が、価値観となり思想と人格が形成される。倫理的生き方とは、「悪を為さない」、「たまには善を為す」という気持ちのたえざる反省であり、「為すー成るー在る」という循環における自己生成の運動性である。

倫理道徳教育とは、そのような自己生成の支援でなければならないだろう。

 

●生活感覚の修練 ~「為すー成るー在る」の運動性

生活感覚という気持ちのあり方は、人生三毛作/少壮老の人生街道において修練される。それぞれの人の生活感覚は、人生街道で形成された人格の発露である。その修練は、幼児期のしつけ、幼稚園・小中学校の「倫理道徳」の教育にはじまる。倫理、道徳への感情基層は、日常生活の経験をかさねながら人それぞれに育ち、人格形成にいたる。人格は、身心頭の欲求の統合である。その身心頭の修練として、儒教は「修身・正心・誠意」を説く。往還思想では、身体自己と生活自己と了解自己の「調整能力」を人格とする。

 

だが人のふだんの生活では、倫理道徳などむずかしく考えたりしない。そもそも現代社会では倫理道徳の話題で真剣にもりあがる場面は少ない。ふだんの生活で善悪を意識的に判断する必要がある場合は、(1)最初は社会常識という分別、良識。(2)つぎに法律、契約、規則、禁止事項などの権利と義務。(3)そして最後にみずからの良心、価値判断、倫理観。

人は、人生三毛作の少/学業期に「在る」生活を「為す」ことによって壮年に「成る」。壮/職業期に「在る」生活を「為す」ことによって老年に「成る」。老/終業期に「在る」生活を「為す」ことによって死骸に「成る」。「少にして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老にして衰えず。老にして学べば死して朽ちず」(江戸時代の儒者)。

人の一生は、誕生から逝去までの間の{在る―→為す―→成る}の連鎖、循環である。システム論でいえば、{潜在性―→可能性―→実現性}の連鎖、循環となる。この哲学は、これまでの西欧哲学の伝統である「本質存在」思考の否定である。

「生」から「死」にいたる人生街道は、善悪おりなす{在る-為す-成る}の連鎖、循環である。このプロセスにおいて生活感覚が修練され、「倫理道徳」感覚が人格のなかにとけ込む。

 

●公立小中学校の道徳教育で、どのように「生活感覚の修練」をしているか? 

道徳教育について高校生の朝日新聞への投書(2014年11月6日)を引用する。

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 小中学校の道徳が「教科外の活動」から「特別の教科」に格上げされる見通しだ。小学3年生の道徳の授業を思い出した。

教材: マジシャンの物語。

売れないマジシャンが、x月x日に子どもにマジックを見せる約束をしていた。

あとで、その日に大きな仕事が入った。

マジシャンは、その仕事を断り、先に約束していた子どもにマジックを見せに行った。

先生: あなたなら「仕事と子どものどちらをとりますか」

私 : 子どもをとります。

先生: 怒ったような声で「本当にそうしますか」

他の生徒: 仕事をとります。

先生: うれしそうに「正直でよろしい」

その後、私は自分の考えより、先生が求めていると思われる答えを言うようになった。

そして、価値観の押しつけにならないよう、道徳を教えるひとは気をつけてほしい。

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 この事例は、「生活感覚の修練」とはほど遠い教育現場をあらわしているような気がする。どだい「あなたがマジシャンだったら」などという問いかけが、まったく小学校3年生の生活感覚とあわないからである。

この先生は、「倫理道徳」教育をどのように考えているのだろうか。

 

4.2で引用した公立小中学校の道徳教育の徳目の再掲

A 私  自分に関すること

健康・安全。規則正しい生活。物や金銭を大切にする。整理整頓。任務遂行。善悪判断。

自律。節度ある生活。深謀。謝罪と改心。不撓不屈。勇気。正直。明朗。快活。節制。

目標設定。自由。誠実。真理追求。創意工夫。自己評価。責任。自主性、調和の生活。

希望と勇気。理想実現。自己の向上。個性の伸長。

B 共  他人との関係

  あいさつ。言葉遣い。動作。幼児・高齢者への親切心。友情。感謝。礼儀。思いやり。

理解・信頼・助け合い。尊敬と感謝。時と場所のわきまえ。男女協力。謙虚な心。感謝と報恩。

人間愛。友情の尊重。異性の理解。人格尊重。他人に学ぶ。

C 公  集団、社会関係、国家、交際

  集団、社会関係遵法。公共物の保全。父母への尊敬・家族愛。愛校心。郷土愛。

  公徳心。勤労。愛国心。国際理解。集団活動。義務の遂行。公正・公平。社会奉仕。

国際親善。集団生活の向上。法の遵守。社会連帯。差別偏見の撤廃。

公共の福祉と社会の発展。国際貢献。

D 天 自然や崇高なものとの関係

 動植物愛護。生命尊重。敬虔な心。自然への感動。崇高なものへの感動。自然環境保全。自他の生命の尊重。感動する心。畏敬の念。

 

●道徳教育への疑問

この徳目リストをみれば、「善を為す」ことのオンパレードである。すべての国民を「聖人君子」に育てようというのが、文部省の方針なのだろうか?

ほとんどの人は、ふだんの生活でつぎの三つの選択をしながら生きる。

1)  あえて「悪い」ことはしない。悪とは、他人に迷惑、損害をあたえる言動。

2)善悪を意識しないで普通に行動する。

3)たまには「善い」ことをする。善とは、他人にとって喜ばれ、利益になる言動。

この選択として、「気持ち善い・悪い」、「尊敬・軽蔑」を感じる。この感じの「道徳のたえざる反省」をうながすことが、公立小中学校の道徳教育ではないかとわたしはおもう。

先生: あなたなら「仕事と子どものどちらをとりますか」

私 : 子どもをとります。

先生: 怒ったような声で「本当にそうしますか」

他の生徒: 仕事をとります。

先生: うれしそうに「正直でよろしい」

この事例では、先生の価値観は「自分に正直な気持ち」にあるようだ。

自分の損得欲望のために「子どもとの約束を破った」ことへの「気持ちの持ち方」の教育はどうなっているのだろうか。

「善を為す」教育よりも「悪を為さない」、「欲しいことをがまんする」などの教育が優先されるべきではないのか。「義務を教える」、「自由を抑制することを教える」のは、人権思想に反するのだろうか。

 

戦前の軍国教育、戦後の民主教育

戦後の公立小中学校の道徳教育は、教科外のあつかいだった。戦前の「修身」教科が軍国主義教育であったという反省からである。敗戦をさかいにして戦前の軍国教育から戦後の民主教育へ転換した。「国家が特定の価値観を国民に押しつける」教育から「国民が多様な価値観を自由に考える」教育への方針転換であった。

戦後70年をへて、「道徳」が教科外のあつかいから正式な教科に格上げとなるようだ。成績評価の科目になるという。国家による検定教科書の導入も検討されている。安倍政権の国家観のひとつの反映だろう。それを「右傾化」とよぶ「進歩的知識人」たちもいる。かれらは、「道徳」の正式な教科に格上げに懸念を示す(「道徳の教科化を憂慮する教育研究者の会」)。

 

公立小中学校の「道徳」は、「私・共・公・天」に対応する。この枠組みは、自分と身辺、周辺、外界、自然という生活空間の距離感でもある。儒学の修身・済家・治国・平天下にも相当する。

私・共・公・天」に対応する戦前の軍国教育の骨格は、天::国家神道、公::現人神天皇、共::共同体、私::臣民であった。明治憲法のもとでは立憲君主制の国体思想を軸として、「私・共・公・天」の関係に一貫性があった。滅私奉公、国家への献身を軸にして「善を為せ」という倫理思想であった。

戦後の民主教育の骨格は、天::??、公::議員・役人、共::??、私::個人(市民である。新憲法のもと、人権尊重、主権在民の民主主義国家である。戦後の民主主義思想には、「私・共・公・天」の関係に一貫性がないというのがわたしの問題意識である。戦後の日本社会は、天と共が不在の私公二階建社会である。

戦後思想は、善悪の基準をかぎりなく相対化する。国家は、善悪の基準を国民に強制できない。しかし、公立小中学校の道徳教育の徳目リストは、「善を為す」ことのオンパレードである。では、「善を為す」ことを強制できない「民主教育」とはどういうことなのだろうか。「善を為す」選択よりも「悪を為さない」選択の教育原理が必要ではないか。

 

「天」をぬきにして「倫理」を語ることができるだろうか?

「大道すたれて仁義あり」という反語がある。「仁義だの道徳だのと声だかに叫ぶのは、仁やら義やらの人の道が荒れているからだ。」という意味である。仁義が実現していない状況になってはじめて仁義が意識される。そして、まことに世の中は、清く正しく善きことだけではない。社会の出来事について、それぞれの人の価値観、倫理観が一致することはまことに少ない。

20141116日に沖縄の県知事選があった。現職が敗れて辺野古移設反対候補が当選した。本土に住むわたしは、沖縄に軍事基地をおしつけ続けている。老生にとって、このことは「気持ちが悪い」。倫理的におかしいと思う。しかし、何らかの社会運動に参加しているわけではない。おなじ感覚は、原発事故の除染作業にもある。核兵器にもある。この「気持ち悪さ」をどう整理して自己了解しようか。

とりあえずの結論は「仕方ない」である。あきらめ、祈り、希望的諦観である。これが老後をすごす我が往還思想である。

往還思想は、「天」をぬきにして「倫理」をどのように語ることができるだろうかと問う。そしてこのように「倫理」を問う心境は、「天」と「共」の再考、復興への希望である。

戦後の民主教育をうけたわたしも、親からつぎのようにいわれて子ども時代をすごした。

「悪いことをしたら罰があたる。うそをいったら閻魔大王から舌をぬかれる。隠しごとをしても天道様はぜんぶ知っておられる。ご先祖が見ている。」

道徳教育についてのわたしの問題意識は、「生活/私共公天」の枠組みと「人生=少壮老/人生三毛作の生き方」=教育、訓練、修業の関係である。人生街道を「倫理的」に生きて「幸せ」を求める教育、訓練、修業のあり方である。

この問題意識が、「老人への延命治療は善なのか?」という超高齢化社会の死生観、老人倫理、生命倫理、社会保障倫理、尊厳死・安楽死のテーマにつながる。

だから正式な教科に格上げされた公立少中学校の道徳教育で、「天=自然」がどのように教えられるのかにとくに関心がある。

いじめ問題==>資本主義社会の競争と共生==>強者と弱者の関係==>強者をいさめる根拠+弱者の自己肯定根拠==>欲望と自由を自制する理由==>自然や崇高なものとの関係==>「天」==>則天去私、敬天愛人というつながりを妄想するからである。

以上  次回に続く。 No4.4 No.4.6へ