4.4 倫理学、応用倫理学、実践哲学   20141031日 改

 4.1で、辞書による倫理に関連する用語を確認した。

4.2で、小学校から中学校の「道徳教育」に盛り込まれた徳目が、つぎの4つの柱に分けられていることを知った。この枠組みは、往還思想の「私・共・公・天」に対応する。

A:自分に関すること ・・・私      良心

B:他人との関係   ・・・共      道徳 良識

C:集団、社会関係   ・・・公     法律

D:自然や崇高なものとの関係 ・・・天  天道 天識

4.3で、高校の倫理教育が、「古今東西のさまざまな思想家の考え方や生き方について学習」し、「自分自身の考え方や生き方を形成していく」ことであることを知った。倫理、思想、哲学はかさなりあって、その区別ははっきりしない。

 そもそも老生の倫理への問題意識は、つぎのような「人間関係」における実践的な課題であった。 

私: 良心の問題

 善: 自分は何を行ったら気持ちが善いか。気持ちが善くなる行いはしたほうがよい。

悪: 自分は何を行ったら気持ちが悪いか。気持ちが悪くなる行いはしないほうがよい。

共: 道徳の問題

善: 自分が何を行ったら、相手の気持ちが善くなるか。相手との社会的了解。良識。

悪: 自分が何を行ったら、相手は気持ちが悪くなるか。相手との社会的了解。悪徳。

公: 法律の問題

善悪: 法律は、良心、道徳の善悪とどのような関係があるか。人権。

天道の問題

善悪: 自分の行いは、お天道さまに恥じないか。天命にそむいていないか。天識。自然。

老人倫理:

  ・生命倫理; 延命治療をしてまでも長生きするのは倫理的か?
  ・世代間倫理; 老人の社会保障費負担を過剰に壮年世代に負わせるのは倫理的か? 

  ・保険料をはらう、税金をはらう、という倫理性は、いかなる意味をもつか?

  ・社会保障を受ける、もらう、救済される、という倫理性は、いかなる意味をもつか?

これらの社会保障領域において、良心、道徳、倫理として、いかなる行動指針が具体化できるか。紀元前から営々として思弁をかさねてきた研究・学問の「人類の叡智」は、それに答えうるのか。これまでの倫理学としての「人類の叡智」は、「個人の自由放恣」欲望を抑制する実践的倫理を提示できているか。

今回4.4では、高校の倫理教育の延長にある大学教授たちが教える「倫理学、応用倫理学、実践哲学」について、一知半解の感想を述べる。

倫理とは、人道(良心、道徳)と天道(生命、自然)に関する社会的了解。

倫理学とは、人道・天道の起源、根拠、本質、範囲、修練、効果などに関する研究、学問。

 

1)日本人、和辻哲郎の倫理学

これまで、「倫理道徳とは?」という問いのもとで、辞書の意味や学校の教科などを表面的になぞってきた。しかし、どうも「了解自己」が納得するような内容ではない。もっと、具体的で日本人の心情にあった「実践的な倫理学」を求めたい気分である。

実践的とは、観念的な人間像を想定するのではなく、生身の生命/身心頭、人生三毛作/

少壮老の世代、私共公/天の生活環境なども考慮した倫理学への期待である。

 

 「人間」を辞書でひいて面白かったのは、「人間=世間=人の住む世界」であった。「人」と「人間」のちがいである。和辻哲郎は、つぎのようなことをいっている。

「西洋の倫理学(anthropologie)は、人間学とはいっても人の身体や精神や意識に関する学である。その人は社会から切り離された個人主義的であり人間ではない。人間の学は、人の閉じた意識を問題とするのではない。人間は、人と人の間柄という共同的存在者である。人間は、間柄的存在である。倫理学は、その間柄の社会的秩序を探求する人間の学問であるべきだ。倫理の「倫」とは、{なかま}を意味する。」

和辻哲郎(18891960)は、近代日本思想史上の代表的存在であるそうだ。「日本の伝統思想に立脚し、西洋哲学を批判的に摂取し、独自の文化研究を進め、独創的・日本的な「人間の学としての倫理学」の体系を、人間的哲学として構築した」という。

「学問的観点からみると、和辻倫理学の価値は、日本という一つの民族社会における人間観や倫理観の伝統的なありかたを、さまざまな側面から明らかにし、これに対して現代に通用する一般的表現形態を与えたところにある。その意味において彼の倫理学は、学問的立場に立った日本論ないし日本人論の先駆的業績としての価値を今日もなおもっている。」という評価がある。

そこでとりあえず、図書館でつぎの本を読んでみた。

「和辻哲郎研究」~解釈学、国民道徳、社会主義~ 津田雅夫 青木書店2001

「甦る和辻哲郎」~人文科学の再生に向けて~佐藤康邦ほか共著 ナカニシ出版1999

「和辻倫理学を読む」~もうひとつの「近代の超克」~子安宣邦 青土社1010

 以下、これらの本から数行を以下に引用する。

 

●「和辻倫理学」の雰囲気

「西洋倫理学は、形式主義的倫理命題の無前提的妥当性を要求する。デカルトを基礎とする自然科学思考は、自我意識と対象物との関係図式で人間と世界を把握する認識論である。自我、認識、主体性を重視する生命哲学、現象学、実存哲学は、いずれも「個人」に偏重している。主観/客観の西洋近代思想は、個人主義的人間観である。」

「倫理という概念は倫理という言葉によって云ひ現はされている。逆に云へばあらゆる間柄の表現は、即ち社会的な形成物は、悉く倫理の表現である。従って、倫理学の方法は解釈学的方法たらざるを得ない。」

「人間の学たる倫理学が人間の道徳意識をその主題とすべきでなくして、かかる意識の現実的地盤たる社会的存在を主題とすべきであることも明らかにされる。」

「かくして倫理学は人間関係・従って人間の共同態の根底たる秩序・道理の学として把捉せられる。それが日本語に於ける「倫理学」の概念である。」

「個人の独立性の止揚は、必ず何らか人倫的な全体への帰属として行われるのであり、個人が没入するのはその人倫的な全体である。」

「今や文化共同体の最大なるものとしての民族にあっては、文化の共同に於いて友人たり得るあらゆる人々の間に家族的・地縁的・経済的な「私」の克服が実現されなくてはならぬ。」

「人間存在に於けるさまざまな全体性はいずれも絶対的全体性の自己限定にほかならぬが、かかる有限なる全体性のうち最も高次にして究極的なるものは国家の全体性である。

神聖性と威力とを明白に自覚し、これを統治権として法的に表現するに至ったのは、まさに国家なのである。人間存在として生きる最もたる道」は、「国家」への「献身・没我・犠牲」である。」

●和辻倫理学への批判

戦後の進歩的知識人たちは、和辻哲郎をつぎのように批判する。

「戦前戦中戦後において変わることのない公然たる天皇制擁護人倫国家の姿勢に示される政治的保守性である。」

 この批判は、和辻哲郎と懇意にしていた西田幾多郎の哲学にも向けられる。西田も大東亜戦争に思想的に加担した。西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の「自己同一」をわたしは問題にしたい。その「自己同一」は、つまるところ「国家」の「自己同一」、全体主義国家思想につながると思うからである。「主体性」の問題である。・・・・・・このテーマは、とりあえずパス。システム論/要素―関係の問題として考える。

 

2)西洋倫理学 形而上学、観念論

生の全体性を謳歌する古代ギリシャ思想を否定して、現世のかなたにイデアを求めるプラトンが西洋哲学の源である。その弟子のアリストテレスが、人文科学・社会科学・自然科学を網羅して、その壮大な知の体系を最初にまとめた、といわれている。

西欧の近代思想は、キリスト教の精神風土においてデカルト、カント、ヘーゲル、マルクスなど道徳的判断を基礎付ける究極的な根拠を求めてきた。かれらは、究極、根拠、統一、唯一原理、体系、絶対知、必然性などを概念・厳密な言葉で表現する衝動につきうごかされてきたように思う。だから、「身心頭」の三元論など歯牙にもかけず、「身」を軽んじ、「心と頭」を分離せず、ひたすら「頭」理性だけ、考えることだけを信用した。たとえば、「つねに普遍的な法則となることが望めるような原理にしたがってのみ行動せよ。」などという。どういうこと?

倫理学者(思想家、哲学者)は、理性に絶対的な信頼を寄せ、普遍的で統一的な価値の原理が、社会全体を統制する力をもつとして、思弁をかさねてきた。学者たちは、つぎの信念を信奉する。

「経験的な世界の事象は、普遍的な科学的法則に支配されている。同様に人間および社会だけでなく神を住まわせる超越的世界にも、普遍的に妥当する論理法則が支配している。」

たとえば、ストア学徒はつぎのように主張した。

「神は知性をもつ。また神は技術を有する火でもある。神は、宇宙の生成に向かって規則正しく進行する。神は、すべての種子的理性を内包している。この理性に則って各事物はそれぞれ割り当てられた運命に従って生成する。神は宇宙全体に満ち満ちている息である。その神は、天空の中にある理性である。」(このことを、東洋思想は、「天網恢恢疎にして漏らさず」、お天道様は何でも見ている、などと簡単にかたづける。わたしも、神=神道=天道=お天道様だと了解する。その了解を「天識」という。)

 ルネサンスの思想家は、「人間の尊厳は自由意志にある」と主張する。「人間は、いかなる束縛によっても制限されない。自由意志によって自らの本性を決定できる。獣へ退化することもできる。神的なものへ生まれ変わることもできる。神は人間を、自らの意志によって自らをつくる名誉ある造形者・形成者として、この地上においた。」

 神と人間とが対面する西欧思想の根がここにある。その根にさまざまな西洋倫理学の幹と枝葉が繁る。その土壌と根は、八百万の神々に守られてきた日本人の精神伝統とは異質である。西欧の知性は、人間の自由意志をひたすらキリスト教神学と矛盾することなき論理=観念体系=形而上学をこしらえることへの「虚しい」格闘であったのじゃないかとおもう。

 

ところが、明治維新のあと日本人学者たちは、それらの西洋倫理学をひっしに追いかけた。そこで縄文人から受け継がれてきた日本人の精神の潜在性が可能性に転化する条件が、断絶した。封建制土壌を近代文明土壌に入れ替える価値観を選択したのである。

明治維新は、日本人の精神が実現発露する環境条件の革命であった。にわか仕込みの新たな思想風土において、哲学、形而上学などという難しい言葉をありがたがり、難解な文章を高尚な知性としてあがめた。

たとえば、ドイツ観念論の哲学巨匠の日本語訳をみてみよう。 

「倫理は自由の理念である。即ちそれは、自己意識に於いて自らの知識及び意欲を有し、且つ自己意識の働きによって現実性をもつところの生ける善である、そしてこの自己意識は、倫理的存在に於いて自らの即而対自的に存在する基礎及び動的目的を有する――かくて倫理は、現存世界に発展すると共に自己意識の本性に発展する自由の概念である。」

 いやはや、いったいどういうこと?

 おなじ原文を咀嚼した別の日本語訳がある。

「共同体の倫理とは、自由の概念が生きた善としてすがたをあらわしたものである。そこでは、善が自己意識に知られ意志されるとともに、自己意識の行動を通じて現実性をも獲得している。とともに、自己意識は、共同体のうちにみずからの絶対の基盤と、みずからの行動を導く目的とを見いだすので、ここでは、自由の概念が、現実の世界として目の前にあるだけでなく、自己意識の本性ともなっているのである。」

ドイツ観念論を仕上げた哲学巨匠の結論は、結局のところ戦前の「滅私奉公」、「国家への献身」ということではないのか。和辻倫理学と結局は、おなじことじゃないのか。

倫理学者や哲学者たちは、安定した職の大学教授の椅子にすわって、こういう文字ことばを積み重ねてきた。それを商売としてメシを食ってきた。あまりに思弁的すぎる形而上学である。

そのような倫理学は、たとえば「いつまでも長命で生きたい」という「老人の自由放恣」欲望を是とするのだろうか。逆にその欲望を不自然だとして抑制する実践的倫理を提示できるだろうか。これまでの学問としての「人類の叡智」は、生身の生命/身心頭、人生三毛作/少壮老の世代、私共公/天の生活環境などの個別性、人情や義理や条理とは無縁のような気がする。生活者の感覚からすれば、倫理は自由の概念などではなく、自由な欲望を抑制しがまんする個人と社会との関係性/良心―良識―天識である、と了解する。

 

3)応用倫理学

現代社会は、政治、行政、経済、教育、技術など高度に複雑に機能分化した社会である。社会の秩序は、善悪で割り切る道徳的コミュニケーションの合意によって実現しているとは思えない。自由な個人が自由に発言できる社会は、差異の多様性が拡大した社会である。21世紀以降の人類社会に、「究極的に合意できる人類に普遍的な価値基準=人倫」が、存在するとはだれも思わないだろう。

少なくとも、過度に道徳的善と正義を主張することが、相手への攻撃、闘争、暴力、テロ、戦争をひきおこしたことを歴史は、おしえる。

自由ゆえに複雑に錯綜した相互関係の社会システムを生きる人々は、その都度ごとの課題状況と条件に応じて、何らかの道徳的コミュニケーションを生きるしかない時代である。社会科学者のつぎの言明にわたしは賛同する。

「道徳とは、善悪の区別による尊敬と軽蔑への指示を含む社会的コミュニケーションの特殊形態である。倫理とは、道徳の基礎付けを求めるのではなく、特定の主題にもとづく社会的コミュニケーションにおける道徳のたえざる反省である。」N.ルーマン)

ここに形而上学ならざる応用倫理学が登場する。実践倫理への道である。

応用倫理学は、社会生活上の特定領域において、その領域の実践行動を規制する「規範・倫理基準」の設定をめざす。それを必要とする時代になったからである。

政治的には国民皆平等の民主主義、経済的には自由競争の資本主義、法律的には個人の所有権と人権擁護という特質をもつ現代社会システムは、その「正」光の側面だけでなく「負」影の面も拡大してきている。

大量生産技術は、地球の大気圏にCO2という廃棄物を累積させて地球の気象を不安定にしつつある。原子力発電所の事故は、数十年先までの子孫に放射能汚染をもたらす。ここに地球全体の生態系に対して責任を確立しようとする環境倫理学が生まれる。持続可能社会への責任という意味で世代間倫理も含まれる。

ノーベル賞の受賞を栄誉とする科学者の研究の欲望には、歯止めがきかない。いまや身の回りの日常生活の中に登場する新しい技術は、人類の歴史が積み重ねてきた「身の丈」の倫理・道徳の枠をこえてしまったとわたしは思う。科学技術に偏りすぎた人間の理性は、人間と地球にたいしてあまりにゴーマンすぎる。

それゆえにつぎのような応用倫理学のテーマが登場してきたのである。これらのほとんどは、資本主義ビジネスにおける「職業倫理」に還元される。職能団体において「xxx倫理委員会」が設置される。そこで「職能の自由を抑制する」基準が作られる。

しかし、グローバルな資本主義経済体制における自由競争は、その基準つくりに抵抗する。近代思想の自由な合理主義が、生活者感覚の倫理性を隠蔽する矛盾というかパラドクスにほかならない。

○生命倫理・医療倫理

人工妊娠中絶、動物実験、脳死判定、精神病の強制医療、安楽死、尊厳死、胎児を用いた研究、遺伝子治療、生殖補助医療、万能細胞、代理懐胎、延命治療介護、生体臓器移植、人造人間ロボット、生と死の倫理

○情報倫理、マスコミ倫理報道倫理コンピュータ倫理映像倫理

技術倫理、工業倫理、科学倫理、企業経営倫理

○家族倫理、公共性・公共政策の倫理、教育倫理、社会福祉倫理、平和・国際関係の倫理

 

4)実践哲学

あえて「実践哲学」いうからには、それまでの「哲学」が、実践向きではなかったことの反省なのであろう。「実践哲学」の意味は、現代社会の複雑な状況にあって、個々の行為主体がとるべき「実践」についての示唆を与えるところにある。だがあくまでも「示唆」なのである。「実践哲学」は、なさるべき「実践」について一義的な答えを与えることはできないのだ。前述した高校の倫理教育とおなじである。

しかるべき特定の「実践」の選択は、個人の権限と責任とに委ねられる。複数の選択肢という商品を陳列棚に並べ、その効能説明書を提示することが、「実践哲学」の守備範囲でしかないようだ。客観的な「学」の名がつけば、どうしてもそうならざるをえない。学問と実践は別なのだ。知行合一にならざるをえない。学者の限界である。

「実践哲学」のはじまりは、「支配者のあり方(貴族、君主、王様、主人、社長、リーダーなど)と被支配者(平民、群衆、臣民、奴隷、社員、フォロワーなど)の生き方」の関係に着目した学問だった。「実践哲学」における「実践」とは、制御・調整・統治・支配/適応、順応、従属の関係にほかならないのであった。
 国民の圧倒的多数が農業に従事していた前近代における生産活動の場は、家父長が支配する個々の家であった。商工業の発展とともに家は単なる消費の単位へと変化した。農業・手作業の知恵は、農学や工学といった独立の実用学問となった。学の体系は、細分化されていく。世の中は逆に複雑化していく。

詮索、研究、学問が深まれば深まるほど、人々の間の知識格差と情報格差は拡大する。知識格差と情報格差が拡大すればするほど、人々の間のコミュニケーションは難しくなる。人々の間のコミュニケーションが難しくなればなるほど、自由・平等・民主主義は、形骸化する。自由・平等・民主主義が、形骸化すれば、・・・・・「お任せ民主主義」の衆愚政治?、全体主義国家?

さて、21世紀の日本社会は、どのような社会になるのだろうか。

 

●個別性と普遍性 ~「学問」の方法

ローカルな部族社会の伝統的家父長による支配構造から脱却し、人類はナショナルな近代国民国家に囲われて生きることになった。そして独立した自由な個人像とともに、契約にもとづく労働者が誕生した。日々の実践とは、労働・仕事を中心に語られることになった。いまやその労働も国境を容易にこえるグローバル経済社会である。

大量消費時代になり生産・労働に代わって消費・享楽が、生活「実践」の大きな領域を占めるようになった。どうじに商品の情報化とともに物質を操作する肉体労働から情報を操作する非物質労働へ、仕事の質が転換した。

かくして、「現代社会に日々突きつけられる未曾有の難問」が、競争と共生、支配と従属、資本と労働、生産と消費、自然と人工、生命と物質など多様な複雑性の網の目として、自由な個人の前にたちはだかる。

複雑性の濃度が高まるにつれて個別性の現象群が膨張する。個人の自由が、差異の多様性社会に拍車をかける。個別性の集合体系に普遍性を求める「学問」の方法が問われることになる。個人と社会、個別と普遍、現象と原理、技術と科学、実践と理論などの「学」の方法である。

はたして、「実践哲学」が、個々の行為主体に、実践的な選択肢を提供できるであろうか。「過去の偉大な知的営為に対する広く的確な見識」が、単なる「文献学的な参照引用解釈ごっこ」と揶揄される学者商売に閉じているのではないだろうか。

心情、人情、義理、条理、道理など、もっと生活感覚にねざした「倫理」が語られるべきではなかろうか。 

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